六祖壇経 / 懺悔品第六
『善知識!法身本具,念念自性自見,即是報身佛。從報身思量,即是化身佛;自悟自修自性功德,是真歸依;皮肉是色身,色身是宅舍,不言歸依也。但悟自性三身,即識自性佛。』
新字:『善知識!法身本具,念念自性自見,即是報身仏。従報身思量,即是化身仏;自悟自修自性功徳,是真帰依;皮肉是色身,色身是宅舎,不言帰依也。但悟自性三身,即識自性仏。』
書き下し
『善知識よ、法身は本より具はる。念念に自性自ら見る、即ち是れ報身佛なり。報身より思量する、即ち是れ化身佛なり。自ら悟り自ら修する自性の功德、是れ真の歸依なり。皮肉は是れ色身、色身は是れ宅舍なり、歸依と言はざるなり。但だ自性の三身を悟らば、即ち自性の佛を識る』と。
現代語訳
「善知識よ、法身はもともと具わっている。思いの一つ一つに自性が自ら見える、それが報身仏である。報身から思いはかる、それが化身仏である。自ら悟り自ら修める自性の功徳、これが真の帰依である。皮や肉は色身であり、色身は住まいにすぎない、帰依するとは言わない。ただ自性の三身を悟れば、それが自性の仏を知るということである」。
解説
仏の三身——法身・報身・化身は、ふつう別々の仏として説かれる。慧能はそれを全部、自分の自性の中に読み替える。法身はもともと具わっている本体。それが一念ごとに自ら見えるのが報身。そこから思いはかってはたらき出すのが化身。三つの仏ではなく、一つの自性の三つの局面である。そして帰依の対象を差し替える。「自ら悟り自ら修する自性の功德、是れ真の歸依なり」。外の仏に帰依するのではない。そのうえで身体について、静かだが強い一言がある。「皮肉は是れ色身、色身は是れ宅舍なり」——身体は住まいだ。住まいは大事に使うが、住まいに帰依はしない。身体を粗末にせよという話ではなく、身体が自分そのものではないという線の引き方である。
この章句が説くこと
自性三身仏法身報身化身色身是宅舎真の帰依
関連する章句
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『六祖壇経』懺悔品第六智は日の如く、慧は月の如し。智慧常に明らかなれども、外に於て境に著すれば、妄念の浮雲に蓋覆せられて、自性明朗なることを得ず。若し善知識に遇ひ、真正の法を聞かば、自ら迷妄を除き、内外明徹にして、自性の中に於て、万法皆現ず。見性の人も、亦復是くの如し。此れを清浄法身仏と名づく」。「善知識、自心自性に帰依する、是れ真仏に皈依するなり。自ら皈依する者は、自性の中の不善心・嫉妬心・諂曲心・吾我心・誑妄心・軽人心・慢他心・邪見心・貢高心、及び一切時中の不善の行を除却し、常に自ら己が過を見て、他人の好悪を説かず、是れ自ら皈依するなり。常に須らく心を下して、普く恭敬を行ずべし、即ち是れ見性通達にして、更に滞礙無し、是れ自ら皈依するなり」。「何をか円満報身と名づくる。譬へば一灯の能く千年の闇を除き、一智の能く万年の愚を滅するが如し。前に向ふことを思ふこと莫れ、已に過ぎしは得べからず。常に後を思ひ、念念円明にして、自ら本性を見よ。善悪殊なりと雖も、本性は二無し。無二の性、名づけて実性と為す。実性の中に於て、善悪に染まざる、此れを円満報身仏と名づく。自性一念の悪を起せば、万劫の善因を滅し、自性一念の善を起せば、恒沙の悪尽くることを得。直ちに無上菩提に至るまで、念念自ら見て、本念を失はざる、名づけて報身と為す。何をか千百億化身と名づくる。若し万法を思はざれば性本空の如し、一念思量する、名づけて変化と為す。悪事を思量すれば、化して地獄と為り、善事を思量すれば、化して天堂と為る。毒害は化して竜蛇と為り、慈悲は化して菩薩と為り、智慧は化して上界と為り、愚痴は化して下才と為る。自性の変化甚だ多し、迷人は省覚すること能はず、念念悪を起して、常に悪道を行く。一念の善に回らば、智慧即ち生ず、此れを自性化身仏と名づく」。
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『六祖壇経』付嘱品第十法身・報身及び化身、三身は本来是れ一身なり。若し性中に向かいて能く自ら見れば、即ち是れ成仏菩提の因なり。本化身より浄性を生じ、浄性は常に化身の中に在り。性は化身をして正道を行ぜしめ、当来円満して真に窮まり無し。淫性は本是れ浄性の因、淫を除けば即ち是れ浄性の身なり。性中に各自五欲を離れば、見性刹那に即ち是れ真なり。今生若し頓教の門に遇わば、忽ち自性を悟りて世尊を見ん。若し修行して仏と作らんことを覓めんと欲せば、知らず何れの処にか真を求めんと擬する。若し能く心中に自ら真を見れば、真有るは即ち是れ成仏の因なり。自性を見ずして外に仏を覓むれば、心を起こすこと総て是れ大痴人なり。頓教の法門今已に留む、世人を救度するには須らく自ら修すべし。汝当来の学道者に報ず、此の見を作さずんば大いに悠悠たらん」』と。師、偈を説き已りて、告げて曰く、『汝等好く住せよ。吾が滅度の後、世情の悲泣して涙を雨らし、人の弔問を受け、身に孝服を著くることを作す莫かれ。吾が弟子に非ず、亦た正法に非ず。但だ自らの本心を識り、自らの本性を見よ。動無く静無く、生無く滅無く、去無く来無く、是無く非無く、住無く往無し。恐らくは汝等心迷いて、吾が意を会せざらん、今再び汝に嘱して、汝をして性を見しむ。吾が滅度の後、此れに依りて修行せば、吾が在りし日の如し。若し吾が教えに違わば、縦い吾世に在るとも、亦た益有ること無し』と。復た偈を説きて曰く、『兀兀として善を修せず、騰騰として悪を造らず。寂寂として見聞を断じ、蕩蕩として心に著する無し』と。師、偈を説き已りて、端坐して三更に至り、忽ち門人に謂いて曰く、『吾行かん』と。奄然として遷化す。時に異香室に満ち、白虹地に属し、林木白に変じ、禽獣哀しみ鳴く。十一月、広・韶・新の三郡の官僚、洎び門人緇白、争いて真身を迎え、之く所を決する莫し。乃ち香を焚きて禱りて曰く、『香煙の指す処、師の帰する所ならん』と。時に香煙直ちに曹渓を貫く。十一月十三日、神龕並びに伝うる所の衣鉢を遷して回る。
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『六祖壇経』付嘱品第十師言く、『汝等諦らかに聽け。後代の迷人、若し眾生を識らば、即ち是れ佛性なり。若し眾生を識らずんば、萬劫に佛を覓むるも逢ひ難し。吾れ今汝に自心の眾生を識り、自心の佛性を見ることを教へん。佛を見んと欲すれば、但だ眾生を識れ。只だ眾生の佛に迷ふが為にして、是れ佛の眾生に迷ふには非ず。自性若し悟らば、眾生は是れ佛なり。自性若し迷はば、佛は是れ眾生なり。自性平等ならば、眾生は是れ佛なり。自性邪險ならば、佛は是れ眾生なり。汝等の心若し險曲ならば、即ち佛眾生の中に在り。一念平直ならば、即ち是れ眾生の佛と成るなり。我が心に自ら佛有り、自らの佛は是れ真の佛なり。自ら若し佛心無くば、何れの處にか真の佛を求めん。汝等の自心は是れ佛なり。更に狐疑すること莫かれ。外に一物として能く建立する無く、皆な是れ本心の萬種の法を生ずるなり。故に經に云く、「心生ずれば、種種の法生じ、心滅すれば、種種の法滅す」と。吾れ今一偈を留めて、汝等と別れん。「自性真佛偈」と名づく。後代の人、此の偈の意を識らば、自ら本心を見て、自ら佛道を成ぜん。偈に曰く』と。
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『臨済録』示衆爾若し自ら信不及ならば、即便ち忙忙地に一切の境に徇って転じ、他の万境に回換せられて、自由を得ず。爾若し能く念念馳求の心を歇得せば、便ち祖仏と別ならず。爾、祖仏を識らんと欲得すや。秖だ爾が面前聴法底、是れなり。学人信不及にして、便ち外に向かって馳求す。設い求め得る者も、皆な是れ文字の勝相にして、終に他の活祖意を得ず。錯ること莫かれ、諸禅徳。此の時遇わずんば、万劫千生、三界に輪回し、好境に徇って掇し去り、驢牛の肚裏に生ぜん。道流、山僧が見処に約せば、釈迦と別ならず。今日多般の用処、什麼をか欠少す。六道の神光、未だ曾て間歇せず。若し能く是の如く見得せば、秖だ是れ一生無事の人なり。大徳、三界は安きこと無し、猶お火宅の如し。此れは是れ爾が久しく停住する処にあらず。無常の殺鬼は一刹那の間に、貴賤老少を揀ばず。爾、祖仏と別ならざらんと要せば、但だ外に求むること莫かれ。爾が一念心上の清浄の光は、是れ爾が屋裏の法身仏なり。爾が一念心上の無分別の光は、是れ爾が屋裏の報身仏なり。爾が一念心上の無差別の光は、是れ爾が屋裏の化身仏なり。此の三種の身は、是れ爾が即今目前聴法底の人なり。秖だ外に向かって馳求せざるが為に、此の功用有り。経論家に拠らば、三種の身を取って極則と為す。山僧が見処に約せば然らず。此の三種の身は是れ名言なり、亦た是れ三種の依なり。古人云く、『身は義に依って立し、土は体に拠って論ず。』法性の身、法性の土、明らかに知んぬ、是れ光影なることを。大徳、爾且く光影を弄する底の人を識取せよ。是れ諸仏の本源、一切処是れ道流が帰舎の処なり。是れ爾が四大の色身は説法聴法を解せず、脾胃肝胆は説法聴法を解せず、虚空は説法聴法を解せず。是れ什麼か説法聴法を解する。
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