六祖壇経 / 懺悔品第六
智如日,慧如月;智慧常明,於外著境,被妄念浮雲蓋覆,自性不得明朗。若遇善知識,聞真正法,自除迷妄,內外明徹,於自性中,萬法皆現,見性之人,亦復如是。此名清淨法身佛。』『善知識!自心歸依自性,是皈依真佛。自皈依者,除卻自性中不善心、嫉妒心、諂曲心、吾我心、誑妄心、輕人心、慢他心、邪見心、貢高心及一切時中不善之行,常自見己過,不說他人好惡,是自皈依。常須下心,普行恭敬,即是見性通達,更無滯礙,是自皈依。』『何名圓滿報身?譬如一燈能除千年闇,一智能滅萬年愚。莫思向前,已過不可得;常思於後,念念圓明,自見本性。善惡雖殊,本性無二,無二之性,名為實性。於實性中,不染善惡,此名圓滿報身佛。自性起一念惡,滅萬劫善因;自性起一念善,得恒沙惡盡。直至無上菩提,念念自見,不失本念,名為報身。何名千百億化身?若不思萬法性本如空,一念思量,名為變化。思量惡事,化為地獄;思量善事,化為天堂;毒害化為龍蛇;慈悲化為菩薩,智慧化為上界,愚痴化為下才。自性變化甚多,迷人不能省覺,念念起惡,常行惡道,回一念善,智慧即生,此名自性化身佛。』
新字:智如日,慧如月;智慧常明,於外著境,被妄念浮雲蓋覆,自性不得明朗。若遇善知識,聞真正法,自除迷妄,内外明徹,於自性中,万法皆現,見性之人,亦復如是。此名清浄法身仏。』『善知識!自心帰依自性,是皈依真仏。自皈依者,除却自性中不善心、嫉妬心、諂曲心、吾我心、誑妄心、軽人心、慢他心、邪見心、貢高心及一切時中不善之行,常自見己過,不説他人好悪,是自皈依。常須下心,普行恭敬,即是見性通達,更無滞礙,是自皈依。』『何名円満報身?譬如一灯能除千年闇,一智能滅万年愚。莫思向前,已過不可得;常思於後,念念円明,自見本性。善悪雖殊,本性無二,無二之性,名為実性。於実性中,不染善悪,此名円満報身仏。自性起一念悪,滅万劫善因;自性起一念善,得恒沙悪尽。直至無上菩提,念念自見,不失本念,名為報身。何名千百億化身?若不思万法性本如空,一念思量,名為変化。思量悪事,化為地獄;思量善事,化為天堂;毒害化為竜蛇;慈悲化為菩薩,智慧化為上界,愚痴化為下才。自性変化甚多,迷人不能省覚,念念起悪,常行悪道,回一念善,智慧即生,此名自性化身仏。』
書き下し
智は日の如く、慧は月の如し。智慧常に明らかなれども、外に於て境に著すれば、妄念の浮雲に蓋覆せられて、自性明朗なることを得ず。若し善知識に遇ひ、真正の法を聞かば、自ら迷妄を除き、内外明徹にして、自性の中に於て、万法皆現ず。見性の人も、亦復是くの如し。此れを清浄法身仏と名づく」。「善知識、自心自性に帰依する、是れ真仏に皈依するなり。自ら皈依する者は、自性の中の不善心・嫉妬心・諂曲心・吾我心・誑妄心・軽人心・慢他心・邪見心・貢高心、及び一切時中の不善の行を除却し、常に自ら己が過を見て、他人の好悪を説かず、是れ自ら皈依するなり。常に須らく心を下して、普く恭敬を行ずべし、即ち是れ見性通達にして、更に滞礙無し、是れ自ら皈依するなり」。「何をか円満報身と名づくる。譬へば一灯の能く千年の闇を除き、一智の能く万年の愚を滅するが如し。前に向ふことを思ふこと莫れ、已に過ぎしは得べからず。常に後を思ひ、念念円明にして、自ら本性を見よ。善悪殊なりと雖も、本性は二無し。無二の性、名づけて実性と為す。実性の中に於て、善悪に染まざる、此れを円満報身仏と名づく。自性一念の悪を起せば、万劫の善因を滅し、自性一念の善を起せば、恒沙の悪尽くることを得。直ちに無上菩提に至るまで、念念自ら見て、本念を失はざる、名づけて報身と為す。何をか千百億化身と名づくる。若し万法を思はざれば性本空の如し、一念思量する、名づけて変化と為す。悪事を思量すれば、化して地獄と為り、善事を思量すれば、化して天堂と為る。毒害は化して竜蛇と為り、慈悲は化して菩薩と為り、智慧は化して上界と為り、愚痴は化して下才と為る。自性の変化甚だ多し、迷人は省覚すること能はず、念念悪を起して、常に悪道を行く。一念の善に回らば、智慧即ち生ず、此れを自性化身仏と名づく」。
現代語訳
智は日のようなもの、慧は月のようなものである。智慧は常に明るいのに、外の対象に執着すると、妄念の浮雲に覆われて、本性は明るく照ることができない。もし善知識(正しく導く師)に出会い、真正の法を聞けば、みずから迷妄を除き、内も外も明るく澄みわたって、本性の中に万法がすべて現れる。本性を見た人も、またこれと同じである。これを清浄法身仏と呼ぶのだ。」「善知識よ、自分の心が自分の本性に帰依すること、これが真の仏に帰依することである。自分に帰依する者は、本性の中の善くない心、嫉妬の心、へつらいの心、我を張る心、偽りの心、人を軽んじる心、他人を侮る心、邪な見方の心、驕り高ぶる心、そしてあらゆる時の善くない行いを取り除き、常に自分の過ちを見て、他人の良し悪しを口にしない。これが自分に帰依することである。常に心をへりくだらせ、広く恭しく敬いを行うこと、それがすなわち本性を見て通達し、もはや滞りが無いということであり、これが自分に帰依することである。」「何を円満報身と呼ぶのか。たとえば一つの灯火が千年の闇を除き、一つの智慧が万年の愚かさを滅ぼすようなものだ。前のことを思ってはならない。すでに過ぎたことは取り戻せない。常に後のことを思い、一念一念が完全に明らかであり、みずから本性を見よ。善と悪は異なるけれども、本性は二つではない。二つでない本性を実性と呼ぶ。実性の中にあって善にも悪にも染まらない、これを円満報身仏と呼ぶ。本性が一念の悪を起こせば、万劫(果てしなく長い時間)の善因を滅ぼし、本性が一念の善を起こせば、ガンジス川の砂の数ほどの悪も尽きる。無上の悟りに至るまで、一念一念みずから見て、本来の念を失わない、これを報身と呼ぶ。何を千百億化身と呼ぶのか。もし万法を思わなければ、本性はもともと空のようである。一念が思いめぐらすこと、これを変化と呼ぶ。悪事を思いめぐらせば地獄と化し、善事を思いめぐらせば天堂と化す。毒害の心は竜や蛇と化し、慈悲の心は菩薩と化し、智慧は上の世界と化し、愚かさは下の者と化す。本性の変化ははなはだ多いが、迷った人はそれに気づくことができず、一念一念悪を起こして、常に悪道を行く。一念を善に振り向ければ、智慧はたちまち生じる。これを自性化身仏と呼ぶのである。」
解説
関連する章句
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『六祖壇経』懺悔品第六自心正に帰依すれば、念念に邪見無し、邪見無きを以ての故に、即ち人我・貢高・貪愛・執著無し、離欲尊と名づく。自心浄に帰依すれば、一切の塵労愛欲の境界に、自性皆染著せず、衆中尊と名づく。若し此の行を修せば、是れ自ら帰依するなり。凡夫は会せず、日より夜に至るまで、三帰戒を受く。若し仏に帰依すと言はば、仏は何処にか在る。若し仏を見ずんば、何に憑りてか帰する所あらん。言却つて妄と成る」。「善知識、各自観察して、錯つて心を用ふること莫れ。経文分明に、自ら仏に帰依すと言ひ、他仏に帰依すとは言はず。自仏に帰せずんば、依る所の処無し。今既に自ら悟らば、各須らく自心の三宝に帰依し、内には心性を調へ、外には他人を敬ふべし、是れ自ら帰依するなり」。「善知識、既に自らの三宝に帰依し竟りぬ。各各志心せよ、吾与(ため)に一体三身自性の仏を説き、汝等をして三身を見、了然として自ら自性を悟らしめん。総て我に随ひて道へ。『自らの色身に於て、清浄法身仏に帰依す。自らの色身に於て、円満報身仏に帰依す。自らの色身に於て、千百億化身仏に帰依す』と」。「善知識、色身は是れ舎宅なり、帰向すと言ふべからず。三身の仏は自性の中に在り、世人総て有るも、自心迷へるが為に内性を見ず、外に三身の如来を覓めて、自身の中に三身の仏有るを見ず。汝等説くを聴け、汝等をして自身の中に於て自性に三身の仏有るを見しめん。此の三身の仏は、自性より生じ、外より得ず。何をか清浄法身仏と名づくる。世人の性は本清浄にして、万法は自性より生ず。一切の悪事を思量すれば、即ち悪行を生じ、一切の善事を思量すれば、即ち善行を生ず。是くの如き諸法、自性の中に在り、天の常に清く、日月の常に明らかなるが如きも、浮雲に蓋覆せらるれば、上は明らかに下は暗し。忽ち風吹きて雲散ずるに遇へば、上下倶に明らかに、万象皆現ず。世人の性の常に浮游すること、彼の天の雲の如し。善知識、
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『六祖壇経』懺悔品第六『善知識よ、法身は本より具はる。念念に自性自ら見る、即ち是れ報身佛なり。報身より思量する、即ち是れ化身佛なり。自ら悟り自ら修する自性の功德、是れ真の歸依なり。皮肉は是れ色身、色身は是れ宅舍なり、歸依と言はざるなり。但だ自性の三身を悟らば、即ち自性の佛を識る』と。
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『六祖壇経』付嘱品第十法身・報身及び化身、三身は本来是れ一身なり。若し性中に向かいて能く自ら見れば、即ち是れ成仏菩提の因なり。本化身より浄性を生じ、浄性は常に化身の中に在り。性は化身をして正道を行ぜしめ、当来円満して真に窮まり無し。淫性は本是れ浄性の因、淫を除けば即ち是れ浄性の身なり。性中に各自五欲を離れば、見性刹那に即ち是れ真なり。今生若し頓教の門に遇わば、忽ち自性を悟りて世尊を見ん。若し修行して仏と作らんことを覓めんと欲せば、知らず何れの処にか真を求めんと擬する。若し能く心中に自ら真を見れば、真有るは即ち是れ成仏の因なり。自性を見ずして外に仏を覓むれば、心を起こすこと総て是れ大痴人なり。頓教の法門今已に留む、世人を救度するには須らく自ら修すべし。汝当来の学道者に報ず、此の見を作さずんば大いに悠悠たらん」』と。師、偈を説き已りて、告げて曰く、『汝等好く住せよ。吾が滅度の後、世情の悲泣して涙を雨らし、人の弔問を受け、身に孝服を著くることを作す莫かれ。吾が弟子に非ず、亦た正法に非ず。但だ自らの本心を識り、自らの本性を見よ。動無く静無く、生無く滅無く、去無く来無く、是無く非無く、住無く往無し。恐らくは汝等心迷いて、吾が意を会せざらん、今再び汝に嘱して、汝をして性を見しむ。吾が滅度の後、此れに依りて修行せば、吾が在りし日の如し。若し吾が教えに違わば、縦い吾世に在るとも、亦た益有ること無し』と。復た偈を説きて曰く、『兀兀として善を修せず、騰騰として悪を造らず。寂寂として見聞を断じ、蕩蕩として心に著する無し』と。師、偈を説き已りて、端坐して三更に至り、忽ち門人に謂いて曰く、『吾行かん』と。奄然として遷化す。時に異香室に満ち、白虹地に属し、林木白に変じ、禽獣哀しみ鳴く。十一月、広・韶・新の三郡の官僚、洎び門人緇白、争いて真身を迎え、之く所を決する莫し。乃ち香を焚きて禱りて曰く、『香煙の指す処、師の帰する所ならん』と。時に香煙直ちに曹渓を貫く。十一月十三日、神龕並びに伝うる所の衣鉢を遷して回る。
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『六祖壇経』付嘱品第十師言く、『汝等諦らかに聽け。後代の迷人、若し眾生を識らば、即ち是れ佛性なり。若し眾生を識らずんば、萬劫に佛を覓むるも逢ひ難し。吾れ今汝に自心の眾生を識り、自心の佛性を見ることを教へん。佛を見んと欲すれば、但だ眾生を識れ。只だ眾生の佛に迷ふが為にして、是れ佛の眾生に迷ふには非ず。自性若し悟らば、眾生は是れ佛なり。自性若し迷はば、佛は是れ眾生なり。自性平等ならば、眾生は是れ佛なり。自性邪險ならば、佛は是れ眾生なり。汝等の心若し險曲ならば、即ち佛眾生の中に在り。一念平直ならば、即ち是れ眾生の佛と成るなり。我が心に自ら佛有り、自らの佛は是れ真の佛なり。自ら若し佛心無くば、何れの處にか真の佛を求めん。汝等の自心は是れ佛なり。更に狐疑すること莫かれ。外に一物として能く建立する無く、皆な是れ本心の萬種の法を生ずるなり。故に經に云く、「心生ずれば、種種の法生じ、心滅すれば、種種の法滅す」と。吾れ今一偈を留めて、汝等と別れん。「自性真佛偈」と名づく。後代の人、此の偈の意を識らば、自ら本心を見て、自ら佛道を成ぜん。偈に曰く』と。
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『六祖壇経』機縁品第七僧智通は、寿州安豊の人なり。初め楞伽経を看ること約千余遍、而も三身四智を会せず、師を礼して其の義を解せんことを求む。師曰く、「三身とは、清浄法身は汝の性なり。円満報身は汝の智なり。千百億化身は汝の行なり。若し本性を離れて、別に三身を説かば、即ち有身無智と名づく。若し三身に自性有ること無きを悟らば、即ち四智菩提と名づく。吾が偈を聴け。曰く、『自性に三身を具へ、発明して四智を成ず。見聞の縁を離れずして、超然として仏地に登る。吾今汝が為に説く、諦(あきら)かに信じて永く迷ふこと無かれ。馳求する者の、終日菩提を説くを学ぶこと莫れ』」と。通再び啓して曰く、「四智の義、聞くことを得べきか」と。師曰く、「既に三身を会せば、便ち四智を明らむ、何ぞ更に問はんや。若し三身を離れて、別に四智を談ぜば、此れを有智無身と名づく。即ち此の有智も、還つて無智と成る」と。復た偈して曰く、「大円鏡智は性清浄、平等性智は心に病無し、妙観察智は見るに功に非ず、成所作智は円鏡に同じ。五八六七は果因に転ず、但だ名言を用ふるのみにして実性無し。若し転処に於て情を留めずんば、繁興して永く那伽定に処せん」。通頓に性智を悟り、遂に偈を呈して曰く、「三身は元我が体、四智は本心の明なり。身智融けて礙無く、物に応じて形に随ふに任す。修を起すは皆妄動、守住するは真精に匪ず。妙旨は師に因りて暁る、終に染汚の名を亡ぜん」と。僧智常は、信州貴溪の人なり。髫年にして出家し、志して見性を求む。一日参礼す。師問ひて曰く、「汝何れより来る。何事をか求めんと欲する」と。曰く、「学人近ごろ洪州白峰山に往きて大通和尚を礼し、見性成仏の義を示さるるを蒙るも、未だ狐疑を決せず、遠く来りて投礼す。伏して望むらくは和尚慈悲もて指示したまへ」と。師曰く、「彼に何の言句か有る、汝試みに挙し看よ」と。曰く、「智常彼に到りて、凡そ三月を経れども、未だ示誨を蒙らず。
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『六祖壇経』般若品第二譬へば雨水は天より有るにあらず、元是れ龍能く興致して、一切衆生、一切草木、有情無情をして、悉皆潤ひを蒙らしめ、百川衆流、却つて大海に入り、合して一体と為るが如し。衆生本性の般若の智も、亦復た是の如し。善知識、小根の人、此の頓教を聞くこと、猶ほ草木の根性小なる者の、若し大雨を被れば、悉皆自ら倒れて、増長すること能はざるが如し。小根の人も亦復た是の如し。元般若の智有りて、大智の人と更に差別無し。何に因りてか法を聞きて自ら開悟せざる。邪見の障重く、煩悩の根深きに縁る。猶ほ大雲の日を覆蓋して、風の吹くを得ざれば、日光現ぜざるが如し。般若の智も亦大小無し。一切衆生の自心の迷悟同じからざるが為なり。迷心にて外に見て、修行して仏を覓め、未だ自性を悟らざる、即ち是れ小根なり。若し頓教を開悟して、外修に執せず、但だ自心に於て常に正見を起さば、煩悩塵労も常に染むること能はず、即ち是れ見性なり。善知識、内外に住せず、去来自由にして、能く執心を除き、通達して礙(さはり)無し。能く此の行を修せば、般若経と本差別無し。善知識、一切の修多羅及び諸の文字、大小の二乗、十二部経は、皆人に因りて置く。智慧の性に因りて、方に能く建立す。若し世人無くば、一切の万法本自ら有らず。故に知る、万法は本人より興ることを。一切の経書は、人に因りて有りと説く。其の人の中に縁りて、愚有り智有り。愚は小人為り、智は大人為り。愚者は智人に問ひ、智者は愚人の為に法を説く。愚人忽然として悟解し心開けば、即ち智人と別無し。善知識、悟らざれば即ち仏も是れ衆生、一念悟る時は衆生も是れ仏なり。故に知る、万法は尽く自心に在ることを。何ぞ心中より頓に真如本性を見ざる。菩薩戒経に云ふ、『我が本元自性清浄なり。若し自心を識り見性せば、皆仏道を成ず』と。浄名経に云ふ、『即時に豁然として、還た本心を得』と。
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