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六祖壇経 / 付嘱品第十

師云:『神會小師,卻得善不善等,毀譽不動,哀樂不生,餘者不得。數年山中,竟修何道?汝今悲泣,為憂阿誰?若憂吾不知去處,吾自知去处;吾若不知去處,終不預報於汝。汝等悲泣,蓋為不知吾去處;若知吾去處,即不合悲泣。法性本無生滅去來,汝等盡坐,吾與汝說一偈,名曰「真假動靜偈。」汝等誦取此偈,與吾意同,依此修行,不失宗旨。』眾僧作禮,請師作偈,偈曰:『一切無有真,不以見於真,若見於真者,是見盡非真。若能自有真,離假即心真,自心不離假,無真何處真?有情即解動,無情即不動,若修不動行,同無情不動。若覓真不動,動上有不動,不動是不動,無情無佛種。能善分別相,第一義不動,但作如此見,即是真如用。報諸學道人,努力須用意,莫于大乘門,卻執生死智。若言下相應,即共論佛義,若實不相應,合掌令歡喜。此宗本無諍,諍即失道意,執逆諍法門,自性入生死。』時,徒眾聞說偈已,普皆作禮,並體師意,各各攝心,依法修行,更不敢諍,乃知大師不久住世。法海上座再拜問曰:『和尚入滅之後,衣法當付何人?』師曰:『吾於大梵寺說法以至於今,抄錄流行,目曰:「法寶壇經」,汝等守護,遞相傳授,度諸群生,但依此說,是名正法。

新字:師云:『神会小師,却得善不善等,毀誉不動,哀楽不生,余者不得。数年山中,竟修何道?汝今悲泣,為憂阿誰?若憂吾不知去処,吾自知去处;吾若不知去処,終不預報於汝。汝等悲泣,蓋為不知吾去処;若知吾去処,即不合悲泣。法性本無生滅去来,汝等尽坐,吾与汝説一偈,名曰「真仮動静偈。」汝等誦取此偈,与吾意同,依此修行,不失宗旨。』衆僧作礼,請師作偈,偈曰:『一切無有真,不以見於真,若見於真者,是見尽非真。若能自有真,離仮即心真,自心不離仮,無真何処真?有情即解動,無情即不動,若修不動行,同無情不動。若覓真不動,動上有不動,不動是不動,無情無仏種。能善分別相,第一義不動,但作如此見,即是真如用。報諸学道人,努力須用意,莫于大乗門,却執生死智。若言下相応,即共論仏義,若実不相応,合掌令歓喜。此宗本無諍,諍即失道意,執逆諍法門,自性入生死。』時,徒衆聞説偈已,普皆作礼,並体師意,各各摂心,依法修行,更不敢諍,乃知大師不久住世。法海上座再拝問曰:『和尚入滅之後,衣法当付何人?』師曰:『吾於大梵寺説法以至於今,抄録流行,目曰:「法宝壇経」,汝等守護,逓相伝授,度諸群生,但依此説,是名正法。

書き下し

師云う、『神会小師は、却って善不善等しきを得て、毀誉に動ぜず、哀楽生ぜず。余の者は得ず。数年山中にて、竟に何の道をか修せる。汝今悲泣するは、阿誰をか憂うと為す。若し吾が去処を知らざるを憂うるならば、吾自ら去処を知る。吾若し去処を知らずんば、終に預め汝に報ぜず。汝等の悲泣するは、蓋し吾が去処を知らざるが為なり。若し吾が去処を知らば、即ち合に悲泣すべからず。法性は本より生滅去来無し。汝等尽く坐せよ、吾汝が与に一偈を説かん、名づけて「真仮動静偈」と曰う。汝等此の偈を誦取し、吾と意同じくし、此れに依りて修行せば、宗旨を失わず』と。衆僧礼を作し、師に偈を作らんことを請う。偈に曰く、『一切に真有ること無し、真を見るを以てせず。若し真を見る者は、是の見は尽く真に非ず。若し能く自ら真有らば、仮を離るるは即ち心の真なり。自心仮を離れずんば、真無し、何れの処か真ならん。有情は即ち動を解し、無情は即ち動かず。若し不動の行を修せば、無情の不動に同じ。若し真の不動を覓めば、動上に不動有り。不動は是れ不動なり、無情には仏種無し。能く善く相を分別し、第一義にして動かず。但だ此くの如き見を作さば、即ち是れ真如の用なり。諸の学道の人に報ず、努力して須らく意を用うべし。大乗の門に于いて、却って生死の智に執する莫かれ。若し言下に相応せば、即ち共に仏義を論ぜよ。若し実に相応せずんば、合掌して歓喜せしめよ。此の宗は本より諍い無し、諍えば即ち道意を失う。逆に執して法門を諍えば、自性は生死に入る』と。時に徒衆、偈を説くを聞き已りて、普く皆礼を作し、並びに師の意を体し、各各心を摂めて、法に依りて修行し、更に敢えて諍わず。乃ち大師の久しく世に住せざるを知る。法海上座、再拝して問いて曰く、『和尚入滅の後、衣法は当に何人にか付すべき』と。師曰く、『吾、大梵寺に法を説きしより以て今に至るまで、抄録して流行し、目づけて「法宝壇経」と曰う。汝等守護して、遞相に伝授し、諸の群生を度せよ。但だ此の説に依らば、是れを正法と名づく。

現代語訳

師は言った。『若い神会は、かえって善と不善を等しく見ることができ、誹られても誉められても動かず、悲しみも喜びも起こさない。ほかの者はそうはできていない。何年も山中にいて、いったい何の道を修めてきたのか。お前たちがいま悲しんで泣いているのは、誰のことを憂えてのことか。もし私が行き先を知らないのを憂えているのなら、私は自分の行き先を知っている。もし私が行き先を知らなかったら、前もってお前たちに知らせたりはしない。お前たちが泣くのは、私の行き先を知らないからだろう。もし私の行き先を知っていれば、泣くはずがない。法の本性には、もともと生滅も去来もない。みな坐れ。お前たちのために一つの偈を説こう。名づけて「真仮動静偈」という。これを誦して覚え、私と心を同じくし、これによって修行すれば、宗旨を失うことはない』。僧たちは礼拝して、師に偈を説くよう願った。偈に言う。『一切のものに真実はない。真実を見ようとしてはならない。もし真実を見たと思うなら、その見はすべて真実ではない。もし自ら真実をもつことができるなら、仮を離れることがそのまま心の真実である。自分の心が仮を離れなければ、真実はない。どこに真実があろう。心あるものは動くことを知り、心なきものは動かない。もし動かない修行をするなら、それは心なきものの不動と同じだ。もし真の不動を求めるなら、動きの上に不動がある。ただ動かないだけの不動は、心なきものであって仏となる種がない。よく相を見分けながら、第一義においては動かない。ただこのように見るならば、それがすなわち真如の働きである。道を学ぶ人々に告げる。努めて心を用いよ。大乗の門にいながら、かえって生死の分別知に執着してはならない。もし言葉を聞いてその場で通じ合うなら、ともに仏の教えを論じよ。もしまことに通じ合わないなら、合掌して相手を喜ばせよ。この宗はもともと争いがない。争えば道の心を失う。逆らいに執着して法門を争えば、自性は生死の中に落ちる』。そのとき門徒たちは偈を聞き終えて、みな礼拝し、師の心を体得し、それぞれ心を収めて法にしたがって修行し、二度と争おうとはしなかった。そして大師が長くこの世にとどまらないことを知った。上座の法海は再拝して問うた。『和尚が入滅された後、衣と法は誰に託されるのか』。師は言った。『私が大梵寺で法を説いてから今に至るまでのことは、書き写されて世に広まっており、「法宝壇経」と名づけられている。お前たちはこれを守り、次々に伝え授けて、多くの人々を救え。ただこの説によるならば、それを正法という。

解説

死期を告げられて泣く弟子たちに、慧能は、泣くのは私の行き先を知らないからだ、法性にはもともと生滅も去来もない、と言う。ただ一人動じなかった若い神会を称え、何年も山にいて何を修めたのかと古参を叱る。続く真仮動静偈は、動かないことを修行と取り違えるなと説く。ただ動かないのは木石と同じで、動きの上にこそ不動がある。さらに、話が通じない相手とは争わず、合掌して喜ばせよという。後継について問われると、衣ではなく「法宝壇経」を拠りどころにせよと答える。組織の引き継ぎでも、後継者の指名より、判断の基準を文書に残すことの方が長く効く。意見が合わない相手と争わない構えも、ここから学べる。

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