六祖壇経 / 般若品第二
善知識,悟無念法者,萬法盡通。悟無念法者,見諸佛境界。悟無念法者,至佛地位。善知識,後代得吾法者,將此頓教法門,於同見同行,發願受持,如事佛故,終身而不退者,定入聖位。然須傳授從上以來,默傳分付,不得匿其正法。若不同見同行,在別法中,不得傳付。損彼前人,究竟無益。恐愚人不解,謗此法門,百劫千生,斷佛種性。善知識,吾有一〈無相頌〉,各須誦取,在家出家,但依此修。若不自修,惟記吾言,亦無有益。
新字:善知識,悟無念法者,万法尽通。悟無念法者,見諸仏境界。悟無念法者,至仏地位。善知識,後代得吾法者,将此頓教法門,於同見同行,発願受持,如事仏故,終身而不退者,定入聖位。然須伝授従上以来,黙伝分付,不得匿其正法。若不同見同行,在別法中,不得伝付。損彼前人,究竟無益。恐愚人不解,謗此法門,百劫千生,断仏種性。善知識,吾有一〈無相頌〉,各須誦取,在家出家,但依此修。若不自修,惟記吾言,亦無有益。
書き下し
善知識、無念の法を悟る者は、万法尽く通ず。無念の法を悟る者は、諸仏の境界を見る。無念の法を悟る者は、仏の地位に至る。善知識、後代に吾が法を得る者、此の頓教の法門を将て、同見同行に於て、発願受持し、仏に事ふるが如くするが故に、終身退かざる者は、定んで聖位に入らん。然して須らく上より以来の、黙伝分付を伝授すべし。其の正法を匿すことを得ず。若し同見同行ならずして、別法の中に在らば、伝付することを得ず。彼の前人を損じ、究竟益無し。恐らくは愚人解せずして、此の法門を謗り、百劫千生、仏の種性を断ぜん。善知識、吾に一の無相頌有り。各須らく誦取すべし。在家も出家も、但だ此に依りて修せよ。若し自ら修せず、惟だ吾が言を記するのみならば、亦益有ること無し。
現代語訳
善知識よ、無念の法(念にとらわれない教え)を悟った者は、あらゆるものに通じる。無念の法を悟った者は、諸仏の境地を見る。無念の法を悟った者は、仏の位に至る。善知識よ、後の世に私の法を得る者は、この頓教の法門を、同じ見解を持ち同じ行を修める人々の間で、誓いを立てて受け保ち、仏に仕えるように生涯退くことがなければ、必ず聖者の位に入るだろう。ただし、昔から黙って伝え授けてきたやり方で伝授しなければならない。その正しい法を隠してはならない。もし同じ見解・同じ行でなく、別の法の中にいる者には、伝え授けてはならない。その相手を損なうだけで、結局何の益もない。愚かな人が理解できずにこの法門を謗り、百劫千生にわたって仏となる種を断ってしまうのが心配だからだ。善知識よ、私には一首の「無相頌」がある。それぞれ誦えて身につけよ。在家でも出家でも、ただこれに依って修めよ。もし自ら修めず、ただ私の言葉を覚えるだけなら、やはり何の益もない。
解説
関連する章句
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『六祖壇経』般若品第二吾が頌を聴け、曰く、説通及び心通は、日の虚空に処するが如し。唯だ見性の法を伝へ、世に出でて邪宗を破す。法には即ち頓漸無し、迷悟に遅疾有り。只だ此の見性の門、愚人は悉くすべからず。説くことは即ち万般なりと雖も、理に合すれば還た一に帰す。煩悩の暗宅の中、常に須らく慧日を生ずべし。邪来れば煩悩至り、正来れば煩悩除く。邪正倶に用ひざれば、清浄にして無余に至る。菩提は本自性なり、心を起せば即ち是れ妄なり。浄心は妄の中に在り、但だ正しければ三障無し。世人若し道を修せば、一切尽く妨げず。常に自ら己が過を見れば、道と即ち相当る。色類自ら道有り、各相妨げ悩まさず。道を離れて別に道を覓むれば、終生道を見ず。波波として一生を度り、到頭(つまるところ)還た自ら懊む。真道を見んと欲得せば、正を行ずる即ち是れ道なり。自ら若し道心無くば、闇に行きて道を見ず。若し真に修道の人ならば、世間の過を見ず。若し他人の非を見ば、自らの非却つて是れ左(たが)ふ。他は非なるも我は非とせず、我が非は自ら過有り。但だ自ら非心を却(しりぞ)け、煩悩を打除して破れ。憎愛心に関せず、長く両脚を伸べて臥す。他人を化せんと擬欲せば、自ら須らく方便有るべし。彼をして疑ひ有らしむること勿れ、即ち是れ自性現ず。仏法は世間に在り、世間を離れずして覚る。世を離れて菩提を覓むるは、恰も兎角を求むるが如し。正見を出世と名づけ、邪見を世間と名づく。邪正尽く打却すれば、菩提の性宛然たり。此の頌は是れ頓教、亦大法船と名づく。迷ひて聞けば経ること累劫、悟れば則ち刹那の間なり。師復た曰く、「今大梵寺に於て此の頓教を説く。普く願はくは法界の衆生、言下に見性成仏せんことを」と。時に韋使君と官僚道俗、師の説く所を聞きて、省悟せざる無し。一時に礼を作し、皆善き哉と嘆ず。何ぞ期せん、嶺南に仏有りて世に出でんとは。
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『六祖壇経』般若品第二善知識よ、智慧もて觀照すれば、內外明徹にして、自らの本心を識る。若し本心を識らば、即ち本と解脫なり。若し解脫を得ば、即ち是れ般若三昧なり。般若三昧は即ち是れ無念なり。何をか無念と名づくる。若し一切の法を見るも、心染著せざる、是れを無念と為す。用ゐれば即ち一切處に遍きも、亦た一切處に著せず。但だ本心を淨くして、六識をして六門を出でしめ、六塵の中に於て、染無く雜無く、來去自由、通用滯り無からしむ。即ち是れ般若三昧、自在解脫、無念行と名づく。若し百物を思はず、當に念をして絕えしむれば、即ち是れ法縛なり、即ち邊見と名づく。
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『六祖壇経』般若品第二善知識よ、我れ忍和尚の處に於て、一たび聞くや言下に便ち開悟し、頓に真如の本性を見る。是を以て此の教法を將て流行し、學道の者をして頓に菩提を悟り、各自に心を觀じ、自ら本性を見せしむ。若し自ら悟らずんば、大善知識の最上乘の法を解する者を覓めて、直ちに正路を示さしむるを須ゐよ。是れ善知識に大因緣有り。所謂る化導して見性を得しむ。一切の善法は、善知識に因りて能く發起するが故なり。三世の諸佛、十二部經は、人の性中に在りて本より自ら具有す。自ら悟る能はずんば、須らく善知識の指示を求めて方に見るべし。若し自ら悟る者は、外に求むるを假らず。若し一向に執して『他の善知識を須ゐて、解脫を得んことを望む』と謂ふ者は、是の處有ること無し。何を以ての故に。自心の內に有り、知識ありて自ら悟ればなり。若し邪迷を起こし、妄念顛倒せば、外の善知識に教授有りと雖も、救ふこと得べからず。若し真正の般若觀照を起こさば、一剎那の間に、妄念俱に滅す。若し自性を識らば、一悟すれば即ち佛地に至る。
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『六祖壇経』定慧品第四善知識、外一切の相を離るるを、名づけて無相と為す。能く相を離るれば、即ち法体清浄なり。此れ是れ無相を以て体と為す。善知識、諸境の上に於て心染まらざるを、無念と曰ふ。自らの念の上に於て常に諸境を離れ、境の上に於て心を生ぜず。若し只だ百物思はず、念尽く除却せば、一念絶ゆれば即ち死して、別処に生を受く。是れ大錯と為す。道を学ぶ者之を思へ。若し法の意を識らずんば、自ら錯るは猶ほ可なるも、更に他人に勧め、自ら迷ひて見ず、又仏経を謗る。所以に無念を立てて宗と為す。善知識、云何が無念を立てて宗と為す。只だ口に見性を説くも、迷人は境の上に念有り、念の上に便ち邪見を起し、一切の塵労妄想、此より生ずるに縁る。自性には本一法の得べき無し。若し所得有りて、妄りに禍福を説かば、即ち是れ塵労邪見なり。故に此の法門は、無念を立てて宗と為す。善知識、無とは何事を無みし、念とは何物を念ずる。無とは、二相無く、諸の塵労の心無きなり。念とは、真如の本性を念ずるなり。真如は即ち是れ念の体、念は即ち是れ真如の用なり。真如自性より念を起す、眼耳鼻舌の能く念ずるに非ず。真如に性有り、所以に念を起す。真如若し無くば、眼耳色声、当時に即ち壊れん。善知識、真如自性より念を起し、六根に見聞覚知有りと雖も、万境に染まらずして、真性常に自在なり。故に経に云ふ、能く善く諸法の相を分別すれども、第一義に於て動かず、と。
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『六祖壇経』般若品第二善知識、迷人は口に念じ、念ずる時に当りて、妄有り非有り。念念に若し行ぜば、是れを真性と名づく。此の法を悟る者は、是れ般若の法なり。此の行を修する者は、是れ般若の行なり。修せざれば即ち凡なり。一念修行すれば、自身仏に等し。善知識、凡夫即ち仏、煩悩即ち菩提なり。前念迷へば即ち凡夫、後念悟れば即ち仏なり。前念境に著すれば即ち煩悩、後念境を離るれば即ち菩提なり。善知識、摩訶般若波羅蜜は、最尊最上最第一なり。住無く往無く亦来無し、三世の諸仏、中より出づ。当に大智慧を用ひて、五蘊の煩悩塵労を打破すべし。此の如く修行せば、定んで仏道を成じ、三毒を変じて戒定慧と為す。善知識、我が此の法門は、一般若より八万四千の智慧を生ず。何を以ての故に。世人に八万四千の塵労有るが為なり。若し塵労無くば、智慧常に現じ、自性を離れず。此の法を悟る者は、即ち是れ無念・無憶・無著なり。誑妄を起さず、自らの真如の性を用ひ、智慧を以て観照し、一切法に於て取らず捨てず。即ち是れ見性して仏道を成ずるなり。善知識、若し甚深の法界、及び般若三昧に入らんと欲せば、須らく般若の行を修すべし。金剛般若経を持誦せば、即ち見性することを得。当に知るべし、此の経の功徳は無量無辺にして、経中に分明に讃歎す、具さに説く能はず。此の法門は是れ最上乗、大智の人の為に説き、上根の人の為に説く。小智小根の人は聞きて、心に不信を生ず。何を以ての故に。譬へば天龍の閻浮提に雨を下すに、城邑聚落、悉皆漂流して、草葉を漂はすが如し。若し大海に雨ふらせば、増さず減らず。若し大乗の人、若し最上乗の人は、金剛経を説くを聞きて、心開け悟解するが故に、本性に自ら般若の智有るを知り、自ら智慧を用ひて、常に観照するが故に、文字を仮らず。
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『六祖壇経』懺悔品第六「吾に一の無相頌有り、若し能く誦持せば、言下に汝が積劫の迷罪をして、一時に消滅せしめん。頌に曰く、『迷人は福を修して道を修せず、只だ福を修するを便ち是れ道と言ふ。布施供養は福辺無けれども、心中の三悪は元来造る。福を修して罪を滅せんと擬将すれども、後世に福を得て罪還つて在り。但だ心中に向ひて罪縁を除け、各自性の中の真の懺悔なり。忽ち大乗の真の懺悔を悟らば、邪を除き正を行じて即ち罪無し。道を学ぶには常に自性に於て観ぜよ、即ち諸仏と同一類なり。吾が祖は唯だ此の頓法を伝ふ、普く願はくは見性して同一体ならんことを。若し当来に法身を覓めんと欲せば、諸法の相を離れて心中に洗へ。努力して自ら見よ悠悠たること莫れ、後念忽ち絶えなば一世休す。若し大乗を悟らば見性することを得ん、虔恭合掌して至心に求めよ』」。師言はく、「善知識、総て須らく誦取し、此れに依りて修行すべし。言下に見性せば、吾を去ること千里なりと雖も、常に吾が辺に在るが如し。此の言下に於て悟らずんば、即ち対面すとも千里なり、何ぞ勤めて遠く来らん。珍重、好し去れ」と。一衆法を聞きて、開悟せざるは靡く、歓喜して奉行す。
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