驢鞍橋 / 卷中
又煩惱心を以て、武勇樊噲を欺く人も、臨命終に至て、無常の殺鬼責め來らん時、日比の威勢盡き果て、勇猛心も失せ、力を出す事能はす。苦患强に隨て、無常の鬼に向て臆病をあらはし、死出の山の大難たへ難く、三途の川にかぼれて、閻魔の廳庭に耻を曝し、永く三惡四趣に墮在して、世々生々耻をさらすへき事、自と云ひ他と云ひ遁れ難かるへしと云ふは、血氣の勇は、血氣盡きは、用に立つへからす。かたいきになりたる時、何と用ゐ得んや。死苦たへがたく、無常に逢ふて腰をぬかし、死期畜生の如くにして死すへし。三途の大河といふ事も、此の時に至て流れ出るもの也。是は今は云ひ聞かせ難し。我此の前三州にて大病して必死に窮る、此の時慥に死出の山、三途の大河おほえたり。中々たへ難きもの也。くわつわつと流れかゝり、目口のあかるゝ事にあらず、其の時我も二瀬三瀬迄か渡りたると覺ゆる也。皆愚にて心安く思居る事、笑止千萬の事哉と也。
新字:又煩悩心を以て、武勇樊噲を欺く人も、臨命終に至て、無常の殺鬼責め来らん時、日比の威勢尽き果て、勇猛心も失せ、力を出す事能はす。苦患強に随て、無常の鬼に向て臆病をあらはし、死出の山の大難たへ難く、三途の川にかぼれて、閻魔の庁庭に耻を曝し、永く三悪四趣に堕在して、世々生々耻をさらすへき事、自と云ひ他と云ひ遁れ難かるへしと云ふは、血気の勇は、血気尽きは、用に立つへからす。かたいきになりたる時、何と用ゐ得んや。死苦たへがたく、無常に逢ふて腰をぬかし、死期畜生の如くにして死すへし。三途の大河といふ事も、此の時に至て流れ出るもの也。是は今は云ひ聞かせ難し。我此の前三州にて大病して必死に窮る、此の時慥に死出の山、三途の大河おほえたり。中々たへ難きもの也。くわつわつと流れかゝり、目口のあかるゝ事にあらず、其の時我も二瀬三瀬迄か渡りたると覚ゆる也。皆愚にて心安く思居る事、笑止千万の事哉と也。
書き下し
又煩悩心を以て、武勇樊噲を欺く人も、臨命終に至て、無常の殺鬼責め来らん時、日比の威勢尽き果て、勇猛心も失せ、力を出す事能はす。苦患強に随て、無常の鬼に向て臆病をあらはし、死出の山の大難たへ難く、三途の川にかぼれて、閻魔の庁庭に耻を曝し、永く三悪四趣に堕在して、世々生々耻をさらすへき事、自と云ひ他と云ひ遁れ難かるへしと云ふは、血気の勇は、血気尽きは、用に立つへからす。かたいきになりたる時、何と用ゐ得んや。死苦たへがたく、無常に逢ふて腰をぬかし、死期畜生の如くにして死すへし。三途の大河といふ事も、此の時に至て流れ出るもの也。是は今は云ひ聞かせ難し。我此の前三州にて大病して必死に窮る、此の時慥に死出の山、三途の大河おほえたり。中々たへ難きもの也。くわつわつと流れかゝり、目口のあかるゝ事にあらず、其の時我も二瀬三瀬迄か渡りたると覚ゆる也。皆愚にて心安く思居る事、笑止千万の事哉と也。
現代語訳
また「煩悩の心で、武勇は樊噲をもしのぐほどの人も、臨終に至り、無常の殺鬼が責めて来るときには、日ごろの威勢も尽き果て、勇猛心も失せ、力を出すことができない。苦しみが強まるにつれて無常の鬼に向かって臆病をあらわし、死出の山の大難に耐えがたく、三途の川におぼれ、閻魔の庁の庭で恥をさらし、長く三悪道・四趣に堕ちて、世々生々に恥をさらすことは、自分も他人も逃れがたい」と書いたのは、血気の勇は血気が尽きれば役に立たないということである。息も絶え絶えになったとき、どうして用いられようか。死の苦しみに耐えられず、無常に遭って腰を抜かし、死に際は畜生のようにして死ぬだろう。三途の大河ということも、この時になって流れ出すものである。これは今は言い聞かせにくい。私は以前、三河で大病して死に瀕した。その時確かに死出の山、三途の大河を覚えた。まことに耐えがたいものである。ごうごうと流れかかり、目も口も開けていられるものではない。その時私も二瀬三瀬までは渡ったと覚えている。皆愚かにも気楽に思っているのは、笑止千万のことだ、と言われた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、誰も憂き事に逢ふては死に度き事も有るべし。只栄耀にして機をへらし居られば、老ても命の惜き事は、若者と替りあるべからす。少々にして娑婆の隙明くべからず。其方達も十二時中眼をすゑ、拳を握り、せぼねを引立て、臍の下より勇猛の心湧出づる程に修すべしと也。
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『驢鞍橋』卷上慶安四辛卯春示して曰く、見解有るよりも死機起るか好き也。我も若き時よりもろい機は有りけるか、死機は遥か後にぞ移れり。今は頸抔切らるゝ者の心は、其儘我頸を切らるゝ様に移る也。総して人の死したると聞くと、其機其儘移る也。其方達の胸には、如何程通するや心元なし。我死苦に責めらるゝと云ふ事、胸どきつき、中々憂きもの也。久敷有らば機へるべき物也。乍去今はませぬ也。我も始めは悪き事かと思ひけるか、後思へば此機万病円也。どつこも収り理まで働きて出たり、今も死機持ちたる者は、次第に能く成る也。然れは死機は生死の離れ始めかと覚ゆる也。
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『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、若き時より用付けたる故か、我法も武勇には自由に使はるへしと思ふ也。相手有れは張合ひにて捨て安きが、何も無き坩の下へ只落ちて死ぬ事はならぬ也。是を以て思ふに只仏法の内に身を捨つる事は難き也。故に四十二章経にも命を捨て必す死する事難しと説き給ふ。実にと死する者に命を捨て死し行く者多くは有るへからす。皆命を惜み死し行くなるべし。扨々大事の事也。御坊主達常に命を捨てて居付けらるべしと也。
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『驢鞍橋』卷上心弥迷惑し、死出の山の大難堪え難く、正念を失ひ、死後畜生の如くにして冥より冥に落入り、其儘餓鬼畜生に体を受けん事、口惜き事に非すや。扨々恐るべき事也。かほとの大事を持ちながら、是れを忘れてたわ事の娑婆に心を抜かし居る事、大なる油断也。能く能く思ひ知り、此大事を平生引受けて守るべし。必ず一大事を忘れて世間に機を抜かすべからすと也。
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『驢鞍橋』卷上一日武士来て法要を問ふ。師示して曰く、後世を願ふと云ふは、此糞袋を何とも思はず打捨つる事也。是れを仕習ふより別の仏法を知らす、我は若き時より是れ計りを仕習ひし也。先づ千騎万騎抜きそろへたる備の中に超入り、胴腹を撞きぬかれて、死に死にして死習ひしに、是れは頓て仕習ひて超入られたり。亦谷底に大蛇口を張り居るに飛込み、角に取着き居習ふに、是れも頓て仕習ひて角に取着き居られたり。爰になにもなき坿の下ヘ、只落ちて死んで見るに、中中張合無くして飛ばれさる也。然れとも此比になつて少し飛ばるゝかと思ふ也。各々もなにとも思はず、自由に捨らるゝ程さまざま工みて、此身を捨習はるべし。なる程强き心を用ゐすして叶ふべからずと也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、人毎に死を忘れて今日角有れば、明日も角有らんと思ふ。亦人人今ではあらじと思ふ物也。究めて聞き事也。左様に思ひ居たる者共皆死失せし也。彼等も時を知るにあらず、各各やうに思ひし者共也。此理を弁へずあだなる身を我身と思ひ、仮の娑婆を我娑婆と思ひ、万才楽と限りなく楽み居る也。如是思懸けなき処に、俄に闇魔の使ふと来り、五臓六腑を責破り、命を責め取る時、眼くらみ耳かすかにして、舌すくみ総身に死苦せまり、苦みの堪えがたきのみならず、命の惜しさ娑婆のなごりの惜しさ云ふ計りなく、前後暗くして何くへ行くと云ふ道やりなく、其時に悔ふるともかひあらんや。
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