驢鞍橋 / 卷上
一日示して曰く、誰も憂き事に逢ふては死に度き事も有るべし。只榮耀にして機をへらし居られば、老ても命の惜き事は、若者と替りあるべからす。少々にして娑婆の隙明くべからず。其方達も十二時中眼をすゑ、拳を握り、せぼねを引立て、臍の下より勇猛の心湧出づる程に修すべしと也。
新字:一日示して曰く、誰も憂き事に逢ふては死に度き事も有るべし。只栄耀にして機をへらし居られば、老ても命の惜き事は、若者と替りあるべからす。少々にして娑婆の隙明くべからず。其方達も十二時中眼をすゑ、拳を握り、せぼねを引立て、臍の下より勇猛の心湧出づる程に修すべしと也。
書き下し
一日示して曰く、誰も憂き事に逢ふては死に度き事も有るべし。只栄耀にして機をへらし居られば、老ても命の惜き事は、若者と替りあるべからす。少々にして娑婆の隙明くべからず。其方達も十二時中眼をすゑ、拳を握り、せぼねを引立て、臍の下より勇猛の心湧出づる程に修すべしと也。
現代語訳
ある日示して言われた。誰でも、つらいことに遭えば、死にたくなることもあるだろう。ただ栄華の中で気迫を減らしていれば、年老いても命の惜しいことは、若者と変わりがない。少々のことでは、娑婆の暇は明かない。あなたたちも、一日中目を据え、拳を握り、背骨を引き立てて、臍の下から勇猛の心が湧き出るほどに修めなさい、と。
解説
つらいときには誰でも死にたくなるが、それは本当に世を離れた心ではない、と正三は言う。安楽に暮らして心の張りを失えば、年を取っても命への執着は若者と変わらない。少しくらいのことで、世への執着は消えない。だから目を据え、拳を握り、背筋を伸ばして、下腹から勇猛の心が湧くほど修めよ、と。年齢を重ねれば自然と悟れるわけではない、日々の鍛錬がなければ執着は残り続ける、という厳しい見方である。
この章句が説くこと
勇猛心姿勢執着老い鍛錬栄華
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下一日示めして曰く、娑婆は喜ふ心にては、何としても勢出つべからずと也。又手をひしと打ち、眼をすゑて曰く、あゝ大儀じやよ大儀じやよ、死ぬ時じゆつからんずか、皆忘れて居るらんと也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、修行と云ふは勇猛の機一つ也。此心無くんば何たる行業も何たる善心も、皆徒事也。如来坐禅と二王坐禅と、あまり隔てあるべからず。面に現はしたると内に用ゐたるの替りなるべし。勇猛の機なくして、なにとして凡夫心にて死する時少しも使はれんや。亦なにを以て一切に勝つへきや。我は此機を頓て修し出したる間、人毎に頓て移らんずと思へとも、一人でも受けたる者なし。然れば是れ迄も修し付け難く、移し難き物と見えたり。時に去る者問、如何様にして此機を修し出すべきや。師示日、眼をすゑて死習ふ外なし。此糞袋をかたきにしてひた責めに責むべし。我が書く処の捨身の位、自己を守るの位をよく見て修せば、必す此機自然に起るへしと也。
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『驢鞍橋』卷下己の五月廿八日の暁曰く、御坊主達もきつと弓を張りたるか如く、張合の心出るや、扨て又痛い痒いと、一切に付ていやな体哉と、きつと境界と張合て居る心有るやと也。去る者、何某病気なるが、一定死に窮て居ると語る。師聞て曰く、扨ても强者哉、是れ貴き人也。老病究りても、心しに切れぬ物也。
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『驢鞍橋』卷上一日若き侍衆に示して曰く、若い衆血気を頼にして、修せずともと思ふ事莫かれ。修して損はをり無いぞ、强いは强いほと强う成り、弱いは次第に强うなる也。亦曰、强い心を以て作す時は、何をなしても天然と能き物也。然れども、分別にてせねばと云ふ機捨てえぬ物也。
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『驢鞍橋』卷上一日曰く、今時は修行に逢ふて我を出す人なし。皆くどつきて居る計り也。强く眼を著け、修し行して是非に生死を出離せんと云ふ大我慢を発して修すべしと也。
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『驢鞍橋』卷上師一日示して曰く、近年仏法に勇猛堅固の大威勢有ると云ふことを唱へ失へり。只柔和に成り、殊勝に成り、無欲に成り、人能くはなれども、怨霊と成る様の機を修し出す人無し。何れも勇猛心を修し出し、仏法の怨霊と成るべしと也。