驢鞍橋 / 卷中
師一日謂衆曰く、四民は、去る人武勇の上にて用ゆるやうに書き與へよと云ふに仍て書く、次でに末の三段を書き添て、四民日用とす。四段共に用ひ樣は一つ也。業替りたるばかり也。又曰く、武士日用に、佛法世法二に有らすと云ふは、世間の上を修行に用ゆる也。然れは又修行の功にて、世間次第に自由に使ふ也。佛法なくして世間自由に使はるへからず。又佛法も世法も、理を正し義を行て、正直の道を用ゆるの外なしと云ふは、今時善惡をも知らず、人に打れても、面かひ拭て居る樣の者を、正直な人哉抔と云ふ。でも無い事也。世話に正直坊の腹立てずと云ふ。何の用にも立たぬ人也。
新字:師一日謂衆曰く、四民は、去る人武勇の上にて用ゆるやうに書き与へよと云ふに仍て書く、次でに末の三段を書き添て、四民日用とす。四段共に用ひ様は一つ也。業替りたるばかり也。又曰く、武士日用に、仏法世法二に有らすと云ふは、世間の上を修行に用ゆる也。然れは又修行の功にて、世間次第に自由に使ふ也。仏法なくして世間自由に使はるへからず。又仏法も世法も、理を正し義を行て、正直の道を用ゆるの外なしと云ふは、今時善悪をも知らず、人に打れても、面かひ拭て居る様の者を、正直な人哉抔と云ふ。でも無い事也。世話に正直坊の腹立てずと云ふ。何の用にも立たぬ人也。
書き下し
師一日謂衆曰く、四民は、去る人武勇の上にて用ゆるやうに書き与へよと云ふに仍て書く、次でに末の三段を書き添て、四民日用とす。四段共に用ひ様は一つ也。業替りたるばかり也。又曰く、武士日用に、仏法世法二に有らすと云ふは、世間の上を修行に用ゆる也。然れは又修行の功にて、世間次第に自由に使ふ也。仏法なくして世間自由に使はるへからず。又仏法も世法も、理を正し義を行て、正直の道を用ゆるの外なしと云ふは、今時善悪をも知らず、人に打れても、面かひ拭て居る様の者を、正直な人哉抔と云ふ。でも無い事也。世話に正直坊の腹立てずと云ふ。何の用にも立たぬ人也。
現代語訳
師がある日、皆に言われた。『四民』は、ある人が武勇の上で用いられるように書いてくれと言ったので書いたのである。ついでに後の三段を書き添えて『四民日用』とした。四段とも用い方は一つである。職業が替わっているだけである。また言われた。「武士日用」に「仏法と世法は二つではない」と書いたのは、世間のことを修行に用いるということである。そうすればまた修行の功によって、世間のことが次第に自由に使えるようになる。仏法なくして世間を自由に使えるはずがない。また「仏法も世法も、理を正し義を行って、正直の道を用いるほかはない」と書いたのは、今の世では善悪も知らず、人に打たれても顔を拭って黙っているような者を、正直な人だなどと言う。とんでもないことである。俗に「正直坊の腹立てず」と言う。何の役にも立たない人である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、四民日用には浮ぶ沈むの機の位大筋を書く、草分にはこまかに心の用ゐ様を書く也。義の段、願力の段、捨身の段、自己の段、此四段を能く見て用ふへし。実有を離るゝの段は、見性の分無くんは少しも用ゐらるへからす。
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『驢鞍橋』卷中〇一、仏語に、世間に入得すれは、出世余り無しと説き給へり。此の文は世法にて成仏するの理也。然れは世法則ち仏法也。華厳に仏法は世間法に異ならず。世間法は仏法に異ならずと如此説き給へり。若し世法にて成仏する道理を用ゐざれは、一切仏意を知らさる人也、と云ふは、此の仏説の如くんは、世間を其の儘仏法に用ひすんは、仏法に非すと也。然る間、世法を仏法になし給へかしとの念願也。其の用には四民抔か好き也。殊に盲安杖天然と書き合はせたり。始めは世法に書き、後には成仏になしる理也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、今時の人仏法は悟らねば用に立たぬと思ふ也。其儀に非す。仏法と云ふは、只今の我心をよう用ひて、今用に立つる事なり。成程心を强う用ゆるを修行とす、心の强うなるほど次第に使はるる也。大に勤むれば大に徳有り、少し勤むれば少しの徳有り、譬へば万石取には及はねども、千石取らば百石取には勝るが如し。分々に徳を得る事也。扨亦悟入すれば、仏境界なりと思へり。そでも無き事也。縦ひ見解有るとも自由に使はるべからず。仏境界と云ふは各別の事也。只悟を求めずとも、修し行じて徳に至るべしと也。
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『驢鞍橋』卷下巳の六月十二日の晩、示して曰く、昔より僧俗に付き道者多しといへども、皆仏法知に成りた計にて、世法万事に使ふと云ふことを云ひたる人一人もなし。有りもこそせんずが、今迄終に聞かす、大略我が云ひ始かと覚ゆる也。扨て又日本の僧俗、或は頌を作り歌を詠み、名頌の道歌の抔と云ふこと多し。是れ慰み仏法と云ふ物也。又或はなにと問ふたれば、なにと答へり、好き答話也と、人貴きことに思へば、自らも仏法と思ふて、醜句の様なことを云ふ者有り、是れでき口仏法と云ふ物也。その外今時の邪解□を知らず。向上仏法、さび仏法、活達仏法、だて仏法、悟仏法、へで仏法、此の外様々の私し仏法多しといへとも、皆是れ病也。我曽て好ます。我は朝から晩迄、きつと果眼に成て居るが好き也。我も如是勤め、人にも如是教ゆを仏法修行とす。我法は果眼仏法也。
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『驢鞍橋』卷下誠に然るへきこと也何れの道の輩も、正直にその道を守り、家職をだに勤め居たらば、どこにありても天然と食分断ゆべからず諸人是れを知らす、家職を忘れて、非分に衣食を求る間、天命に叶はす、殊に出家人抔は、何くの野の末、山の奥にありても、仏制に背かす、仏行を正くし、真の道をだに守り居らば、食尽くべからずと也
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『驢鞍橋』卷下一日、去る処にて示して曰く、仏法と云ふは、万事に使ふこと也。殊に武士は鯢波坐禅を用ゆへしと云つて、自ら鯢波を作し給ふ。その座に不三あり、ひしとこの機を受く、師後にその意を聞て肯之。
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