驢鞍橋 / 卷中
〇一、佛語に、世間に入得すれは、出世餘り無しと說き給へり。此の文は世法にて成佛するの理也。然れは世法則ち佛法也。華嚴に佛法不異世間法。世間法不異佛法と如此說き給へり。若し世法にて成佛する道理を用ゐざれは、一切佛意を知らさる人也、と云ふは、此の佛說の如くんは、世間を其の儘佛法に用ひすんは、佛法に非すと也。然る間、世法を佛法になし給へかしとの念願也。其の用には四民抔か好き也。殊に盲安杖天然と書き合はせたり。始めは世法に書き、後には成佛になしる理也。
新字:〇一、仏語に、世間に入得すれは、出世余り無しと説き給へり。此の文は世法にて成仏するの理也。然れは世法則ち仏法也。華厳に仏法不異世間法。世間法不異仏法と如此説き給へり。若し世法にて成仏する道理を用ゐざれは、一切仏意を知らさる人也、と云ふは、此の仏説の如くんは、世間を其の儘仏法に用ひすんは、仏法に非すと也。然る間、世法を仏法になし給へかしとの念願也。其の用には四民抔か好き也。殊に盲安杖天然と書き合はせたり。始めは世法に書き、後には成仏になしる理也。
書き下し
〇一、仏語に、世間に入得すれは、出世余り無しと説き給へり。此の文は世法にて成仏するの理也。然れは世法則ち仏法也。華厳に仏法は世間法に異ならず。世間法は仏法に異ならずと如此説き給へり。若し世法にて成仏する道理を用ゐざれは、一切仏意を知らさる人也、と云ふは、此の仏説の如くんは、世間を其の儘仏法に用ひすんは、仏法に非すと也。然る間、世法を仏法になし給へかしとの念願也。其の用には四民抔か好き也。殊に盲安杖天然と書き合はせたり。始めは世法に書き、後には成仏になしる理也。
現代語訳
一、「仏の言葉に、世間に深く入りきれば、出世間(悟りの世界)に余すところはないと説かれている。この文は、世法によって成仏するという道理である。そうであれば、世法がそのまま仏法である。華厳経にも『仏法は世間法に異ならず、世間法は仏法に異ならず』とこのように説かれている。もし世法によって成仏する道理を用いないなら、仏の心をまったく知らない人である」というのは、この仏説のとおりであれば、世間をそのまま仏法に用いないのなら仏法ではない、ということである。だから、世法を仏法にしていただきたいとの念願である。その用には『四民日用』などがよい。とりわけ『盲安杖』は、おのずとそのように書き合わせてある。初めは世法として書き、後には成仏に至らせる道理である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『驢鞍橋』卷中〇一、仏法は成仏の法也。然れども成仏の心得に邪正有り。若し邪正の差別を知らすんは、皆以邪法なるへし。願はくは成仏の処に眼を著て修行し給へかしとの念願也、と云ふは、成仏に毫釐の差別有り、諸宗共に分別の外に胸の開かると云ふ事を知らす。心地開るを成仏とす。此の邪正を能く心得て修すへき也。〇一、仏法修行は、三界出離の法也。故に出家と名く。若し三界出離の旨無くんは、出家に非す。願はくは三界出離の修行し給へかしとの念願也、と云ふは、離相離名を体として、三界出離の修行せよとの念願也と云ふは、心一つを滅する事也。
-
『驢鞍橋』卷下巳の六月十二日の晩、示して曰く、昔より僧俗に付き道者多しといへども、皆仏法知に成りた計にて、世法万事に使ふと云ふことを云ひたる人一人もなし。有りもこそせんずが、今迄終に聞かす、大略我が云ひ始かと覚ゆる也。扨て又日本の僧俗、或は頌を作り歌を詠み、名頌の道歌の抔と云ふこと多し。是れ慰み仏法と云ふ物也。又或はなにと問ふたれば、なにと答へり、好き答話也と、人貴きことに思へば、自らも仏法と思ふて、醜句の様なことを云ふ者有り、是れでき口仏法と云ふ物也。その外今時の邪解□を知らず。向上仏法、さび仏法、活達仏法、だて仏法、悟仏法、へで仏法、此の外様々の私し仏法多しといへとも、皆是れ病也。我曽て好ます。我は朝から晩迄、きつと果眼に成て居るが好き也。我も如是勤め、人にも如是教ゆを仏法修行とす。我法は果眼仏法也。
-
『驢鞍橋』卷中問ふ、世間に入り得れば、出世に余り無し。此の意如何。師答て云はく、世法は皆是れ聖人の教也。入得たる人を聖人と云ふと見えたり。然れは聖人と仏とは遠からじと思ふ也。又問ふ、仁義を守る人を、世間に入得たる人と申すへきや。師云はく、是れ入得たる人に非す、今入り習ふ人なり。君子に仁義有り、僧に法有りと悪く云へりと也。
-
『驢鞍橋』卷中師一日謂衆曰く、四民は、去る人武勇の上にて用ゆるやうに書き与へよと云ふに仍て書く、次でに末の三段を書き添て、四民日用とす。四段共に用ひ様は一つ也。業替りたるばかり也。又曰く、武士日用に、仏法世法二に有らすと云ふは、世間の上を修行に用ゆる也。然れは又修行の功にて、世間次第に自由に使ふ也。仏法なくして世間自由に使はるへからず。又仏法も世法も、理を正し義を行て、正直の道を用ゆるの外なしと云ふは、今時善悪をも知らず、人に打れても、面かひ拭て居る様の者を、正直な人哉抔と云ふ。でも無い事也。世話に正直坊の腹立てずと云ふ。何の用にも立たぬ人也。
-
『驢鞍橋』卷中一日人来り修行の念願の意を問ふ。師示めして曰く、一仏曰く、仏法は国王大臣有力の檀那に付属すと説きたまへり。然らは公義の御下知なくしては、仏法正理なるへからずと書いたは、今時は仏の出世にても正理立ち難し。只御公義より下知あれは、忽ち正理に成る也。仏も是れに仍て国王大臣に付属すと申し置かれたり。あはれあはれ、御下知に因て仏法正理になしたまへかしと乍恐念願に存し奉る也。もはや二百年に余て、我朝の正法絶え果てり、扨て、是非に及はぬ次第也。此の段御訴訟申上度念願計也
-
『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、今時の人仏法は悟らねば用に立たぬと思ふ也。其儀に非す。仏法と云ふは、只今の我心をよう用ひて、今用に立つる事なり。成程心を强う用ゆるを修行とす、心の强うなるほど次第に使はるる也。大に勤むれば大に徳有り、少し勤むれば少しの徳有り、譬へば万石取には及はねども、千石取らば百石取には勝るが如し。分々に徳を得る事也。扨亦悟入すれば、仏境界なりと思へり。そでも無き事也。縦ひ見解有るとも自由に使はるべからず。仏境界と云ふは各別の事也。只悟を求めずとも、修し行じて徳に至るべしと也。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る