驢鞍橋 / 卷中
師一日衆に謂て曰く、草分は、萬安和尙の所望に仍て書く也。まづ初段は、若年の始めの頭をするときつと心の着け樣、次に佛祖を信し樣、出家の義の守り樣を書く也。扨て成長すれは、行脚をもなす物なる間、行脚の仕樣、智解にかゝはらす、一句の守り樣、乞食の仕樣、學文の仕樣、無常の觀じ樣、願力の起し樣を書く也。もはや爰では强く修せで不叶。然る間、捨身の守り樣、自己の守り樣を書く也。次に邪正の知り樣、實有の見をはなれ樣を書く。是れ迄にて修行の始末はすむ。是れ向上の修行にあらす、誠に初心の人の爲めにする麓の草分也。其後は、一寺にも住し、人の亡者をも請取ものなる間、亡者弔ひの仕樣、非人に施しの仕樣、施物の收め樣、檀那挨拶の仕樣迄を書く也。然れども、用に立つる人なし。何と末の四段は、實にもと受け德を取る人も有らむすがと也。
新字:師一日衆に謂て曰く、草分は、万安和尚の所望に仍て書く也。まづ初段は、若年の始めの頭をするときつと心の着け様、次に仏祖を信し様、出家の義の守り様を書く也。扨て成長すれは、行脚をもなす物なる間、行脚の仕様、智解にかゝはらす、一句の守り様、乞食の仕様、学文の仕様、無常の観じ様、願力の起し様を書く也。もはや爰では強く修せで不叶。然る間、捨身の守り様、自己の守り様を書く也。次に邪正の知り様、実有の見をはなれ様を書く。是れ迄にて修行の始末はすむ。是れ向上の修行にあらす、誠に初心の人の為めにする麓の草分也。其後は、一寺にも住し、人の亡者をも請取ものなる間、亡者弔ひの仕様、非人に施しの仕様、施物の収め様、檀那挨拶の仕様迄を書く也。然れども、用に立つる人なし。何と末の四段は、実にもと受け徳を取る人も有らむすがと也。
書き下し
師一日衆に謂て曰く、草分は、万安和尚の所望に仍て書く也。まづ初段は、若年の始めの頭をするときつと心の着け様、次に仏祖を信し様、出家の義の守り様を書く也。扨て成長すれは、行脚をもなす物なる間、行脚の仕様、智解にかゝはらす、一句の守り様、乞食の仕様、学文の仕様、無常の観じ様、願力の起し様を書く也。もはや爰では強く修せで不叶。然る間、捨身の守り様、自己の守り様を書く也。次に邪正の知り様、実有の見をはなれ様を書く。是れ迄にて修行の始末はすむ。是れ向上の修行にあらす、誠に初心の人の為めにする麓の草分也。其後は、一寺にも住し、人の亡者をも請取ものなる間、亡者弔ひの仕様、非人に施しの仕様、施物の収め様、檀那挨拶の仕様迄を書く也。然れども、用に立つる人なし。何と末の四段は、実にもと受け徳を取る人も有らむすがと也。
現代語訳
師がある日、皆に言われた。『草分』は万安和尚の所望によって書いたものである。まず初段は、若くして初めて頭を剃るとき、きっぱりと心を着ける仕方、次に仏祖を信じる仕方、出家の義の守り方を書いた。さて成長すれば行脚もするものだから、行脚の仕方、知的な理解にとらわれず一句を守る仕方、乞食の仕方、学問の仕方、無常の観じ方、願力の起こし方を書いた。もうここまで来れば強く修行しなければかなわない。それで捨身の守り方、自己の守り方を書いた。次に邪と正の見分け方、実有の見を離れる仕方を書いた。これまでで修行の始末は済む。これは向上の修行ではなく、まことに初心の人のための、麓の草分けである。その後は一寺に住み、人の亡者も引き受けるものだから、亡者の弔い方、非人への施し方、施物の収め方、檀家への挨拶の仕方までを書いた。けれども、役立てる人がいない。末の四段などは、実にもっともだと受け取って得をする人もいるだろうに、と言われた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、四民日用には浮ぶ沈むの機の位大筋を書く、草分にはこまかに心の用ゐ様を書く也。義の段、願力の段、捨身の段、自己の段、此四段を能く見て用ふへし。実有を離るゝの段は、見性の分無くんは少しも用ゐらるへからす。
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『驢鞍橋』卷上一日衆にかたつて曰く、此比去る女人我草分を見て、此前より修行の望み有りて様々法語等を見けれとも、取着いて修行すべき処なく、見るほと迷ひけるが、此草分を見てひしと取留めて修行のすべを慥に得たり。もはや筋は疑ひ無し、是れを修せぬと云ふ事有らんやと云ふたる人有り。今迄我書を見たる人の中に、是程見分けたる人無し。皆世間の仮名法語等と一つに見るつれ計り也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る者草分を誦み損するを呵して曰く、我文もつゞかされとも、汝等か為めに心の及ぶ程書曲げて置くに、年来左右に乍居、是れを見分けぬと云ふ様な、無道心なる事有らんや。扨もでかい恥不知哉。爰に有るは只我をたらして、飯を心安く喰はん為めか。其面にて我前に好く出づる事也。夫れげな心にて先々にて我を売り回り、我にも耻を与ふる也。乍去我耻はもはや二三年の耻也。汝か永劫閣魔の前の耻を顧みすや。扨々不義至極の者哉。
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『驢鞍橋』卷上一日近比の遁世者に示して曰く、如何様なる者も頭をすれば、早打上つて人に貴はれ、殊勝に成り、売僧に成り、徳有る御坊主の振をする也。今時の道心者皆此つれ計り也。其方も我法によらんと思はゞ、一向の土に成り、謙つて向上に眼を著けす、足元より修すべし。なまけた振をし、さも無き事を鼻に上げてありかんと思はゞ、出入無用也。
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『驢鞍橋』卷下一日、示して曰く、中古の人の修行は、身心清浄に用ひ、先つ好き体を造り立て、その内に仏法を取籠み、人を度し、好き者に成り、打上て居る位也。何としても常の人よりは上に成て居らるべし。我□るは別也。つゝとよりから此の糞袋めに眼を着て打捨る筋也。如是始めからおずい物に成る修行也。只かつたい坊に成て修するか好き也。中古の人の如く用ひては、我は悪き也。あの如く用ふるは、我か立て度ても、人が立てさせてこそ。古人は仏に成る修行、我はどすに成る修行也。如是守て糞袋に離るより別のことを知らぬ也。
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『驢鞍橋』卷中師曰く我に離るゝ事也、我にさへ離れぬれは、万徳を使ふ也。性は明るがらうとも、暗からうとも、行は強からうとも弱からうとも、只我に離るゝ筋を勤めは、万徳の筋を修する人也。志のないと云ふも、我に離れ度き心の無きを云ふ也。扨て此の外物知りの、学者の、行者の、能筆の、作者の抔と云ふは、法中の芸者也。正法にあらす縦ひ一文不通なりとも我に離るゝ筋を修する人を正法と定れは、誰れも聞く事に非すや。加様の大すへをさへ知りめされぬは愚なる事也。あつたら雑談を其方達に聞かせたり。能く耳のある者に聞かせたし。是れ程の事も正三が死ねば、誰れても沙汰してかをりない御坊主達、聞き置てくれめされよと也。
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