驢鞍橋 / 卷上
一日衆にかたつて曰く、此比去る女人我草分を見て、此前より修行の望み有りて樣々法語等を見けれとも、取着いて修行すべき處なく、見るほと迷ひけるが、此草分を見てひしと取留めて修行のすべを慥に得たり。もはや筋は疑ひ無し、是れを修せぬと云ふ事有らんやと云ふたる人有り。今迄我書を見たる人の中に、是程見分けたる人無し。皆世間の假名法語等と一つに見るつれ計り也。
新字:一日衆にかたつて曰く、此比去る女人我草分を見て、此前より修行の望み有りて様々法語等を見けれとも、取着いて修行すべき処なく、見るほと迷ひけるが、此草分を見てひしと取留めて修行のすべを慥に得たり。もはや筋は疑ひ無し、是れを修せぬと云ふ事有らんやと云ふたる人有り。今迄我書を見たる人の中に、是程見分けたる人無し。皆世間の仮名法語等と一つに見るつれ計り也。
書き下し
一日衆にかたつて曰く、此比去る女人我草分を見て、此前より修行の望み有りて様々法語等を見けれとも、取着いて修行すべき処なく、見るほと迷ひけるが、此草分を見てひしと取留めて修行のすべを慥に得たり。もはや筋は疑ひ無し、是れを修せぬと云ふ事有らんやと云ふたる人有り。今迄我書を見たる人の中に、是程見分けたる人無し。皆世間の仮名法語等と一つに見るつれ計り也。
現代語訳
ある日、衆に語って言われた。近ごろ、ある女性が私の『草分』を見て、以前から修行の望みがあって、さまざまな法語などを見たけれども、取りついて修行すべきところがなく、見るほど迷ったが、この『草分』を見て、ひしと取り留めて、修行の方法を確かに得た。もはや筋に疑いはない。これを修めないということがあろうか、と言った人がいる。今まで私の書を見た人の中で、これほど見分けた人はいない。みな世間の仮名法語などと同じように見る類ばかりである、と。
解説
多くの法語を読んでも修行の手がかりが得られなかった女性が、正三の『草分』を読んで、はっきりと修行の道筋をつかんだ、という。正三は、自分の書をこれほど正確に読み取った人は初めてだと喜ぶ。弟子の多くが読み違えていた中で、一人の在家の女性が本質を見抜いた。肩書きや身分ではなく、真剣に道を求める心が理解の深さを決める。書き手にとって、真に理解してくれる一人の読者の存在がいかに大きいかも伝わる。
この章句が説くこと
草分読者理解女性在家求道
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