師導古典を学びたいすべての人に

驢鞍橋 / 卷下

一日、示して曰く、中古の人の修行は、身心淸淨に用ひ、先つ好き体を造り立て、その內に佛法を取籠み、人を度し、好き者に成り、打上て居る位也。何としても常の人よりは上に成て居らるべし。我□るは別也。つゝとよりから此の糞袋めに眼を着て打捨る筋也。如是始めからおずい物に成る修行也。只かつたい坊に成て修するか好き也。中古の人の如く用ひては、我は惡き也。あの如く用ふるは、我か立て度ても、人が立てさせてこそ。古人は佛に成る修行、我はどすに成る修行也。如是守て糞袋に離るより別のことを知らぬ也。

新字:一日、示して曰く、中古の人の修行は、身心清浄に用ひ、先つ好き体を造り立て、その内に仏法を取籠み、人を度し、好き者に成り、打上て居る位也。何としても常の人よりは上に成て居らるべし。我□るは別也。つゝとよりから此の糞袋めに眼を着て打捨る筋也。如是始めからおずい物に成る修行也。只かつたい坊に成て修するか好き也。中古の人の如く用ひては、我は悪き也。あの如く用ふるは、我か立て度ても、人が立てさせてこそ。古人は仏に成る修行、我はどすに成る修行也。如是守て糞袋に離るより別のことを知らぬ也。

書き下し

一日、示して曰く、中古の人の修行は、身心清浄に用ひ、先つ好き体を造り立て、その内に仏法を取籠み、人を度し、好き者に成り、打上て居る位也。何としても常の人よりは上に成て居らるべし。我□るは別也。つゝとよりから此の糞袋めに眼を着て打捨る筋也。如是始めからおずい物に成る修行也。只かつたい坊に成て修するか好き也。中古の人の如く用ひては、我は悪き也。あの如く用ふるは、我か立て度ても、人が立てさせてこそ。古人は仏に成る修行、我はどすに成る修行也。如是守て糞袋に離るより別のことを知らぬ也。

現代語訳

ある日示して言われた。中古の人の修行は、身と心を清浄に用い、まず良い体を作り立てて、その中に仏法を取り込み、人を済度し、良い者になって、打ち上がっている位である。どうしても普通の人よりは上になっておられるはずだ。私の□るのは別である。すっと初めから、この糞袋めに目をつけて打ち捨てる筋である。このように始めから、みすぼらしい者になる修行である。ただ癩病人になって修めるのがよい。中古の人のように用いては、私には悪いのである。あのように用いるのは、自分が立てたくても、人が立てさせてこそのことである。古人は仏になる修行、私はどす(癩病人)になる修行である。このように守って糞袋を離れるより、ほかのことは知らないのである。

解説

中古の修行者は、身も心も清らかにして立派な人格を作り、人を導く偉い人になった、と正三は言う。しかし自分の修行は逆で、初めからこの身体を捨てる気で、最も卑しくみすぼらしい者になる修行だ、と。当時差別されていた病者を引き合いに出す表現には時代の限界がある。ただ、立派な人になろうとする修行が人の上に立つ慢心を生む、という洞察は鋭い。理想の自分を築く道と、自分を捨てる道の違いを示している。

この章句が説くこと

中古の修行清浄捨身慢心時代の限界糞袋

関連する章句

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる