驢鞍橋 / 卷中
示尼正誓書。佛道修行の趣き、理入行入の二つ也。一理入と云ふは、一切有爲法。如夢幻泡影。如露亦如電と悟つて、本來無一物に叶ふは理入也。二つに行入と云ふは身心を責て八萬四千の煩惱の病を責□くは行入也。少しも身心を愛するは地獄の業也。身心を責るは、則ち出離解脱の道なりと知て强く責むへし。
新字:示尼正誓書。仏道修行の趣き、理入行入の二つ也。一理入と云ふは、一切有為法。如夢幻泡影。如露亦如電と悟つて、本来無一物に叶ふは理入也。二つに行入と云ふは身心を責て八万四千の煩悩の病を責□くは行入也。少しも身心を愛するは地獄の業也。身心を責るは、則ち出離解脱の道なりと知て強く責むへし。
書き下し
示尼正誓書。仏道修行の趣き、理入行入の二つ也。一理入と云ふは、一切有為の法は、夢幻泡影の如く、露の如く亦た電の如しと悟つて、本来無一物に叶ふは理入也。二つに行入と云ふは身心を責て八万四千の煩悩の病を責□くは行入也。少しも身心を愛するは地獄の業也。身心を責るは、則ち出離解脱の道なりと知て強く責むへし。
現代語訳
尼の正誓に示した書。仏道修行の趣旨は、理入と行入の二つである。一つ目の理入というのは、「一切の有為の法は夢・幻・泡・影のごとく、露のごとく、また電のごとし」と悟って、本来無一物にかなうことである。二つ目の行入というのは、身心を責めて八万四千の煩悩の病を責め□くことである。少しでも身心を愛するのは地獄の業である。身心を責めることこそ、迷いを出て解脱する道だと知って、強く責めなさい。
解説
尼僧に与えた手紙で、正三は修行を理入と行入の二つに分けて示す。理入は、すべては夢や泡のようにはかないと悟ること、行入は、身と心を責めて煩悩を一つずつ責め落としていくことである。理屈で分かることと、実地で体に叩き込むことの両方が要る、という整理である。とくに正三が強調するのは、身心を甘やかすことが迷いの根になるという点だ。頭で理解しただけで満足せず、実際の行動で自分を鍛え直しているかが問われる。
この章句が説くこと
理入行入修行煩悩身心鈴木正三
関連する章句
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『驢鞍橋』卷中六門集に曰く。夫れ道に入るに多途あり。要して之を言へば、二種を出でず。一は是れ理入、二は是れ行入なり。理入とは、謂く教に藉りて宗を悟り、深く含生同一の真性を信ず。倶に客塵妄想の為に覆はれて、顕了すること能はず。若し也妄を捨てて真に帰し、壁観に凝住すれば、自無く他無く、凡聖等一にして、堅住して移らず、更に文教に随はず。此れ即ち理と冥符して、分別有ること無く、寂然無為なり。之を理入と名づく。師せつて云はく、其心の人は無為にして、只あるか娑婆の用には立ぬや、若し立つと云はゝ、何と立るぞとせるへき也。如是せりつめは、学解計りの人は、云ひ得る事なるへからす。右の旨を以て語をせる位を知るべしと也。
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『驢鞍橋』卷下一日去る人自己を守らんとするに、取着き処無くして守れぬと云ふに示して曰く、中々好き合手こそあれ。先つ此身痛く痒く熱く寒く、四苦八苦満み満み不浄は積て湛へたり。扨て心中には八万四千の悪業煩悩の苦有り、やれやれいやな体哉。あな憎くの心め哉と此身心を合手にして、きつと睨付けて守るべし。之に增したる合手有らんや。我は始めより憂かりこの機がきつと備はり、此身に使はれ責めらるゝことかうゝて有りしに仍て、抜かしたうても自ら抜けす。左なき人は我悪いことに眼を付けて守るの外なし。必ずこの糞袋を合手にして、きつと張合て守るへし。如是なしてこそ、二王の機と云ふことをも知り、実も薄く成り、心も次第に自由に成るべし。総じて修行は、今使はるゝ様にすへき也。
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『驢鞍橋』卷中如是なる身を愛するを愚人と云ひ、殺得するを道者とす。此の理を忘れすして、捨身を本意として行脚すへし。油断あらは、大地獄に入るへし。此の身を捨て切り、浮世にはなれ切らずは、仏果に到る事有るへからす。食乏しき時は、此の身に餓鬼ある事を知て責むへし。瞋恚の発る時は、則ち地獄の衆生なる事を知て責むへし。愚痴蒙昧の時は、則ち畜生なりと知て責むへし。大小便の時は、臭肉不浄を以て責むへし。起居動静について臭皮袋を責めて、終に責め破る時節有らは、即心成仏なるへし。是れを日々に読みて責むへし。必す読み聞かすへし。懈怠有るからす。已上。
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『驢鞍橋』卷中修行の道千差万別なりといへ共、肝要は身を思ふ一念也と云ふは、何と修行せうとも、其の肝要は、身を思ふ念一つを離るゝが体也。一切の苦は、此の念より起る也。身を捨て得たらは、何事か苦ならんや。是れ慥に合手を見たる処也。又然れば凡夫心に物に勝て浮心あり。物に負て沈心あり。浮心を用ゆるは、仏界に入るの門、沈心を用ゆるは獄中に入る道也。専ら出離の願力を以て、昼夜浮心を守るへしと云ふは、凡夫心に此の二筋あり。浮心と云ふは、急度いきた機也。是れ仏界の道也。昼夜此の心を守るへし。物に勝て浮心の類勇猛心を体とす。始めは物に勝て浮心の類と計り書きけれ共、人錯て心を用るに因て、後ち勇猛心を体とすと書き添えたり。十七段ともに此の心か体也。総して此の勇猛心一つか修行の体也。此の心を用ゐて、有相執着の一念を滅する事一つ也。
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『驢鞍橋』卷中〇一、仏法は成仏の法也。然れども成仏の心得に邪正有り。若し邪正の差別を知らすんは、皆以邪法なるへし。願はくは成仏の処に眼を著て修行し給へかしとの念願也、と云ふは、成仏に毫釐の差別有り、諸宗共に分別の外に胸の開かると云ふ事を知らす。心地開るを成仏とす。此の邪正を能く心得て修すへき也。〇一、仏法修行は、三界出離の法也。故に出家と名く。若し三界出離の旨無くんは、出家に非す。願はくは三界出離の修行し給へかしとの念願也、と云ふは、離相離名を体として、三界出離の修行せよとの念願也と云ふは、心一つを滅する事也。
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『驢鞍橋』卷上慶安二の春、洞家の僧来り法要を問ふ。師示して曰く、仏道修行と云ふは自己を守ること也。曹洞宗に老僧も小僧も云ふ事也。自己を取放ちたりと、是れ好き詞也。是れに仍て自己を忘るべからすと云ふ事を、草分の中に書く。此段を能く見るべし。修行の肝要は、自己を守る一つ也。一切の煩悩は機の抜けたる処より起る也。只强く眼を着けて、十二時中万事の上に機を抜かさず。急度張懸けて守り、六賊煩悩を退治すべし。夢中とも抜けぬ程に守らで叶はず。随分守ると思ふても覚えずぬけて、彼の煩悩に負くへし。ともすれば意馬妄想の叢にかけ入り、心猿名利の梢にひよつひよつと移るべし。强く眼を着け、莫妄想の一句を轡づらと成して、急度引詰めて守るべし。刹那も機を抜かすへからすと也。
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