驢鞍橋 / 卷中
〇一、佛法は成佛の法也。然れども成佛の心得に邪正有り。若し邪正の差別を知らすんは、皆以邪法なるへし。願はくは成佛の處に眼を著て修行し給へかしとの念願也、と云ふは、成佛に毫釐の差別有り、諸宗共に分別の外に胸の開かると云ふ事を知らす。心地開るを成佛とす。此の邪正を能く心得て修すへき也。〇一、佛法修行は、三界出離の法也。故に出家と名く。若し三界出離の旨無くんは、出家に非す。願はくは三界出離の修行し給へかしとの念願也、と云ふは、離相離名を体として、三界出離の修行せよとの念願也と云ふは、心一つを滅する事也。
新字:〇一、仏法は成仏の法也。然れども成仏の心得に邪正有り。若し邪正の差別を知らすんは、皆以邪法なるへし。願はくは成仏の処に眼を著て修行し給へかしとの念願也、と云ふは、成仏に毫釐の差別有り、諸宗共に分別の外に胸の開かると云ふ事を知らす。心地開るを成仏とす。此の邪正を能く心得て修すへき也。〇一、仏法修行は、三界出離の法也。故に出家と名く。若し三界出離の旨無くんは、出家に非す。願はくは三界出離の修行し給へかしとの念願也、と云ふは、離相離名を体として、三界出離の修行せよとの念願也と云ふは、心一つを滅する事也。
書き下し
〇一、仏法は成仏の法也。然れども成仏の心得に邪正有り。若し邪正の差別を知らすんは、皆以邪法なるへし。願はくは成仏の処に眼を著て修行し給へかしとの念願也、と云ふは、成仏に毫釐の差別有り、諸宗共に分別の外に胸の開かると云ふ事を知らす。心地開るを成仏とす。此の邪正を能く心得て修すへき也。〇一、仏法修行は、三界出離の法也。故に出家と名く。若し三界出離の旨無くんは、出家に非す。願はくは三界出離の修行し給へかしとの念願也、と云ふは、離相離名を体として、三界出離の修行せよとの念願也と云ふは、心一つを滅する事也。
現代語訳
一、「仏法は成仏の法である。けれども成仏の心得には邪と正がある。もし邪正の区別を知らなければ、みな邪法となるだろう。どうか成仏のところに眼をつけて修行していただきたい、との念願である」というのは、成仏にはわずかな違いがあり、諸宗ともに、分別の外で胸が開けるということを知らない。心地が開けることを成仏とするのである。この邪正をよく心得て修めるべきである。一、「仏法の修行は三界を出離する法である。ゆえに出家という。もし三界出離の旨がなければ出家ではない。どうか三界出離の修行をしていただきたい、との念願である」というのは、相を離れ名を離れることを本体として、三界出離の修行をせよという念願であり、それは心一つを滅することである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下一日、示して曰く、今時の修行者、大略輪廻の業を免るべからす。夫れ成仏と云ふは、三界出離を旨として、名に離れ相に離れ、我に離れ、娑婆に離れ、一切にぐつと離ること也。総而此の娑婆にあらゆることの間に落るは、皆是れ輪廻の業と也。
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『驢鞍橋』卷中〇一、仏語に、世間に入得すれは、出世余り無しと説き給へり。此の文は世法にて成仏するの理也。然れは世法則ち仏法也。華厳に仏法は世間法に異ならず。世間法は仏法に異ならずと如此説き給へり。若し世法にて成仏する道理を用ゐざれは、一切仏意を知らさる人也、と云ふは、此の仏説の如くんは、世間を其の儘仏法に用ひすんは、仏法に非すと也。然る間、世法を仏法になし給へかしとの念願也。其の用には四民抔か好き也。殊に盲安杖天然と書き合はせたり。始めは世法に書き、後には成仏になしる理也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る人来て成仏を問ふ。師示して曰く、成仏と云ふは本来空に成る事也。元の如く我もなく、人も無く、法も無く、仏も無く、一切にくつとつゝ離れて、手を打払ふて際を明くる事也。悟にても何にても有らは、ろでは無き也。婆子焼庵の古則抔好き証拠也。亦曰く、隙なき人折々来る事無用也、我云ふ程の事は徳用、草分等に書く。あの外は云ふことなし。是れを好く見らるべし。彼者、随分修行仕れど少しも上らすと云ふ。師曰、たやすく成る事に非す、其やうに安く成る事ならば、我は羅漢にも菩薩にも成るへきが未た餓鬼畜生を離れす、然る間次第つよに修すへし。一旦頭の火を払ふ様なりとも、跡つゞかざれば用に立たす、急に成る事と思はゞ退屈すへしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、今時の人仏法は悟らねば用に立たぬと思ふ也。其儀に非す。仏法と云ふは、只今の我心をよう用ひて、今用に立つる事なり。成程心を强う用ゆるを修行とす、心の强うなるほど次第に使はるる也。大に勤むれば大に徳有り、少し勤むれば少しの徳有り、譬へば万石取には及はねども、千石取らば百石取には勝るが如し。分々に徳を得る事也。扨亦悟入すれば、仏境界なりと思へり。そでも無き事也。縦ひ見解有るとも自由に使はるべからず。仏境界と云ふは各別の事也。只悟を求めずとも、修し行じて徳に至るべしと也。
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『驢鞍橋』卷中〇一、仏は万徳円満と也。然らは万徳の旨なくして修行する人は、仏弟子にあらす。願はくは万徳を旨として修行したまへかしとの念願也、と云ふは、万徳は、使ふ様に修せねは使はれぬ也。勇猛の機□する程に、次第に使はるゝ也。然る間、此の旨を守て修行せよとの念願也。畢竟万徳を使ふ事は、我を離るゝを体とする也。〇一、仏宝、法宝、僧宝、是れを三宝と崇め奉る也。此の三宝を受て万民に施し、国土の宝となすへき旨なくして修行する人は、僧に非す。願はくは三宝の旨を守て修行し給へかしとの念願也、と云ふは、本心を仏宝とし、契ふを法宝とし、人に施すを僧宝とす、僧宝なけれは、仏法の二法は立たぬ也。然る間、万民を安んし国土の宝となる様に、真の道を修行し給へかしとの念願也。修し様は、何も前の万徳円満の筋一つ也。
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『驢鞍橋』卷上一日人来り、何を承りても覚ねぬに仍りて修行仕り得ずと云ふ。師聞て曰く、扨も能き事也。一物をも覚えぬを仏法と云ふ也。是れに仍りて覚えて置く事を嫌ひ捨て、只念仏を以て胸の中の塵ほこりを払捨て払捨てする事を勤めさする也。如是勤めて仏法世法共に忘れ果て、はらりつと手を打叩いた如くに成るを成仏と云ふ也。
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