驢鞍橋 / 卷中
修行の道千差萬別なりといへ共、肝要は身を思ふ一念也と云ふは、何と修行せうとも、其の肝要は、身を思ふ念一つを離るゝが体也。一切の苦は、此の念より起る也。身を捨て得たらは、何事か苦ならんや。是れ慥に合手を見たる處也。又然れば凡夫心に物に勝て浮心あり。物に負て沈心あり。浮心を用ゆるは、佛界に入るの門、沈心を用ゆるは獄中に入る道也。專ら出離の願力を以て、晝夜浮心を守るへしと云ふは、凡夫心に此の二筋あり。浮心と云ふは、急度いきた機也。是れ佛界の道也。晝夜此の心を守るへし。物に勝て浮心の類勇猛心を躰とす。始めは物に勝て浮心の類と計り書きけれ共、人錯て心を用るに因て、後ち勇猛心を躰とすと書き添えたり。十七段ともに此の心か躰也。總して此の勇猛心一つか修行の体也。此の心を用ゐて、有相執着の一念を滅する事一つ也。
新字:修行の道千差万別なりといへ共、肝要は身を思ふ一念也と云ふは、何と修行せうとも、其の肝要は、身を思ふ念一つを離るゝが体也。一切の苦は、此の念より起る也。身を捨て得たらは、何事か苦ならんや。是れ慥に合手を見たる処也。又然れば凡夫心に物に勝て浮心あり。物に負て沈心あり。浮心を用ゆるは、仏界に入るの門、沈心を用ゆるは獄中に入る道也。専ら出離の願力を以て、昼夜浮心を守るへしと云ふは、凡夫心に此の二筋あり。浮心と云ふは、急度いきた機也。是れ仏界の道也。昼夜此の心を守るへし。物に勝て浮心の類勇猛心を体とす。始めは物に勝て浮心の類と計り書きけれ共、人錯て心を用るに因て、後ち勇猛心を体とすと書き添えたり。十七段ともに此の心か体也。総して此の勇猛心一つか修行の体也。此の心を用ゐて、有相執着の一念を滅する事一つ也。
書き下し
修行の道千差万別なりといへ共、肝要は身を思ふ一念也と云ふは、何と修行せうとも、其の肝要は、身を思ふ念一つを離るゝが体也。一切の苦は、此の念より起る也。身を捨て得たらは、何事か苦ならんや。是れ慥に合手を見たる処也。又然れば凡夫心に物に勝て浮心あり。物に負て沈心あり。浮心を用ゆるは、仏界に入るの門、沈心を用ゆるは獄中に入る道也。専ら出離の願力を以て、昼夜浮心を守るへしと云ふは、凡夫心に此の二筋あり。浮心と云ふは、急度いきた機也。是れ仏界の道也。昼夜此の心を守るへし。物に勝て浮心の類勇猛心を体とす。始めは物に勝て浮心の類と計り書きけれ共、人錯て心を用るに因て、後ち勇猛心を体とすと書き添えたり。十七段ともに此の心か体也。総して此の勇猛心一つか修行の体也。此の心を用ゐて、有相執着の一念を滅する事一つ也。
現代語訳
「修行の道は千差万別であるけれども、肝要は身を思う一念である」と書いたのは、どう修行しようとも、その肝要は、身を思う念一つを離れることが本体だということである。一切の苦しみはこの念から起こる。身を捨て得たならば、何事が苦しかろうか。これこそ確かに相手を見定めたところである。また「そうであるから凡夫の心に、物に勝って浮く心がある。物に負けて沈む心がある。浮心を用いるのは仏界に入る門、沈心を用いるのは地獄に入る道である。もっぱら出離の願力によって、昼夜浮心を守れ」と書いたのは、凡夫の心にこの二筋があるということである。浮心というのは、しっかりと生きた機である。これが仏界の道である。昼夜この心を守りなさい。「物に勝って浮く心の類は、勇猛心を体とする」。初めは「物に勝って浮く心の類」とだけ書いたが、人が取り違えて心を用いるので、後から「勇猛心を体とする」と書き添えた。十七段ともこの心が本体である。総じてこの勇猛心一つが修行の本体である。この心を用いて、有相に執着する一念を滅することが一つである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下一日人問ふ、四民に書を給ふ所の浮心を如何用ゐんや。師示して曰く、虎口塲に望む心也。又果眼に成り、じりじりと懸る時の心也。此の機なくして万事に使はるべからす。仏道修行と云ふは、始めより終り迄、只此の機一つを以て生死を離るゝこと也。生死さへ離れば成仏也。然る間、此の機一つを以て成仏すべき也。別に入ることなし。見解抔と云ふこともさして用に立たぬ物也。毒薬変して薬と成ると云ふが如く、薬変して毒と成り結句怨と成ること多かるべし。見解よりも何よりも、只勇猛の心を以て練付て行くかよき也。古歌に「悟とは悟らで悟る悟なり悟る悟は夢の悟ぞ」とあり。誠に悟る悟はあぶないことぞ。我も悟らぬ悟がすきなり。法然などの念仏往生も悟らぬ悟也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、修行と云ふは勇猛の機一つ也。此心無くんば何たる行業も何たる善心も、皆徒事也。如来坐禅と二王坐禅と、あまり隔てあるべからず。面に現はしたると内に用ゐたるの替りなるべし。勇猛の機なくして、なにとして凡夫心にて死する時少しも使はれんや。亦なにを以て一切に勝つへきや。我は此機を頓て修し出したる間、人毎に頓て移らんずと思へとも、一人でも受けたる者なし。然れば是れ迄も修し付け難く、移し難き物と見えたり。時に去る者問、如何様にして此機を修し出すべきや。師示日、眼をすゑて死習ふ外なし。此糞袋をかたきにしてひた責めに責むべし。我が書く処の捨身の位、自己を守るの位をよく見て修せば、必す此機自然に起るへしと也。
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『驢鞍橋』卷下彼人問ふ。僧俗によらず、修行は何で仕るや。師示めして曰く、修行と云ふは、生死を離るへき願力を强く起し、縦ひ無間の底に入ても、此の一念心を失はずして、生々世々をかけて、終に生死を出でんと强く守ること也。此の心强ふても、强ふなければならず、如是守るを信心堅固の大とも、修行者とも云ふ也。なにと其方の道心も此の心か。彼者曰く、さ迄の道心にて候はず、縁に触れては、心乱れかはしく候間、先つ十年ほど江戸を離れてあらんと存する也。師曰く、夫げな心にて。道心と云はるべからず。我は本よりさびじいぞ、やかましいぞと縁に障へらるゝと云ふことを知ずと也。
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『驢鞍橋』卷上一日曰く、今時の修行者、皆古人の嫌道を免かるべからず。大略無門の禅の箴、或は大恵八種の嫌道等に落ち居て、修行と思ひ、法を得たり抔と思はるゝと見えたり。故に抜けがら坐禅を為し、あつか忘然と成りて、物を思はざる処を無念無心と思ふ人あり。是れ大なる錯也。如是用ふる者は機へりて病者と成り、気違と成る也。夫れ仏法の無念無心と云ふは、一切の上に用ふる無念無心也。悲む時も、悅ふ時も、万事の上に使ふ無念無心也。其故は仏涅槃の時、迦葉阿難を始め皆悲み玉ふ。是れをも有心なりと云はんや。扨亦此無念を用ふる坐禅の筋と云ふは、只勇猛心を用ふる一つ也。能く此筋を受くべし。此筋を弁へたる人は、自らの修行弱しと云ふとも、諸の修行者の為めに宝也。
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『驢鞍橋』卷下一日去る人自己を守らんとするに、取着き処無くして守れぬと云ふに示して曰く、中々好き合手こそあれ。先つ此身痛く痒く熱く寒く、四苦八苦満み満み不浄は積て湛へたり。扨て心中には八万四千の悪業煩悩の苦有り、やれやれいやな体哉。あな憎くの心め哉と此身心を合手にして、きつと睨付けて守るべし。之に增したる合手有らんや。我は始めより憂かりこの機がきつと備はり、此身に使はれ責めらるゝことかうゝて有りしに仍て、抜かしたうても自ら抜けす。左なき人は我悪いことに眼を付けて守るの外なし。必ずこの糞袋を合手にして、きつと張合て守るへし。如是なしてこそ、二王の機と云ふことをも知り、実も薄く成り、心も次第に自由に成るべし。総じて修行は、今使はるゝ様にすへき也。
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『驢鞍橋』卷中又本来心の異名を知るへし。金剛の正体とも、堅固法身とも云ふ。此の心物にかゝはらす、恐れす驚かず、憂へず退かず不動不変にして、一切の主人となる。如是通徹して用ゐ得るを、大丈夫の漢、鉄心肝、達道人抔と云ふ也。此の人万念に碍られす、万事を使ひ得て大自在也。然る間、仏道修行の人は、先つ勇猛の心なくして叶ひ難し。如是大丈夫、鉄心肝に至る事なる間、只此の勇猛の心一つなりとのみこんで、一頭に強き心を用ゐよと云ふ事也。是れ一つをさへ聞しめさるれは、用は調ふ也。皆爰をうつかと見らるゝに仍て、ぐどつくと也。
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