驢鞍橋 / 卷中
六門集曰。夫入道多途。要而言之。不出二種。一是理入。二是行入。理入者。謂藉敎悟宗深信含生同一眞性。倶爲客塵妄想所覆。不能顯了。若也捨妄歸眞。凝住壁觀。無自無他。凡聖等一。堅住不移。更不隨於文敎。此即與理冥符。無有分別。寂然無爲。名之理入。師せつて云はく、其心の人は無爲にして、只あるか娑婆の用には立ぬや、若し立つと云はゝ、何と立るぞとせるへき也。如是せりつめは、學解計りの人は、云ひ得る事なるへからす。右の旨を以て語をせる位を知るべしと也。
新字:六門集曰。夫入道多途。要而言之。不出二種。一是理入。二是行入。理入者。謂藉教悟宗深信含生同一真性。倶為客塵妄想所覆。不能顕了。若也捨妄帰真。凝住壁観。無自無他。凡聖等一。堅住不移。更不随於文教。此即与理冥符。無有分別。寂然無為。名之理入。師せつて云はく、其心の人は無為にして、只あるか娑婆の用には立ぬや、若し立つと云はゝ、何と立るぞとせるへき也。如是せりつめは、学解計りの人は、云ひ得る事なるへからす。右の旨を以て語をせる位を知るべしと也。
書き下し
六門集に曰く。夫れ道に入るに多途あり。要して之を言へば、二種を出でず。一は是れ理入、二は是れ行入なり。理入とは、謂く教に藉りて宗を悟り、深く含生同一の真性を信ず。倶に客塵妄想の為に覆はれて、顕了すること能はず。若し也妄を捨てて真に帰し、壁観に凝住すれば、自無く他無く、凡聖等一にして、堅住して移らず、更に文教に随はず。此れ即ち理と冥符して、分別有ること無く、寂然無為なり。之を理入と名づく。師せつて云はく、其心の人は無為にして、只あるか娑婆の用には立ぬや、若し立つと云はゝ、何と立るぞとせるへき也。如是せりつめは、学解計りの人は、云ひ得る事なるへからす。右の旨を以て語をせる位を知るべしと也。
現代語訳
『少室六門集』に言う。「そもそも道に入るにはさまざまな道があるが、要約すれば二種類を出ない。一つは理入、もう一つは行入である。理入とは、教えによって宗旨を悟り、生きとし生けるものが同じ一つの真性を持つことを深く信じることである。ただそれが客塵のような妄想に覆われて、はっきり現れないだけである。もし妄想を捨てて真実に帰り、壁のように不動の観法に心を凝らして住すれば、自他の区別もなく、凡夫と聖人も等しく一つで、堅く住して動かず、もはや文字の教えにも従わない。これこそ理とひそかに合致し、分別がなく、静まりかえって作為がない。これを理入と名づける」。師はこれを責め問うように言われた。「そのような心の人は無為であって、ただいるだけで、この世の役には立たないのか。もし役に立つと言うなら、どう役に立つのかと問い詰めるべきである。このように詰めれば、学問の理解だけの人は言うことができないはずだ。右の趣旨によって、言葉で問い詰めて相手の境地を知るべきである」。
解説
この章句が説くこと
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