驢鞍橋 / 卷上
慶安二の春、洞家の僧來り法要を問ふ。師示して曰く、佛道修行と云ふは自己を守ること也。曹洞宗に老僧も小僧も云ふ事也。自己を取放ちたりと、是れ好き詞也。是れに仍て自己を忘るべからすと云ふ事を、草分の中に書く。此段を能く見るべし。修行の肝要は、自己を守る一つ也。一切の煩惱は機の抜けたる處より起る也。只强く眼を着けて、十二時中萬事の上に機を拔かさず。急度張懸けて守り、六賊煩惱を退治すべし。夢中とも抜けぬ程に守らで叶はず。隨分守ると思ふても覺えずぬけて、彼の煩惱に負くへし。ともすれば意馬妄想の叢にかけ入り、心猿名利の梢にひよつひよつと移るべし。强く眼を着け、莫妄想の一句を轡づらと成して、急度引詰めて守るべし。刹那も機を拔かすへからすと也。
新字:慶安二の春、洞家の僧来り法要を問ふ。師示して曰く、仏道修行と云ふは自己を守ること也。曹洞宗に老僧も小僧も云ふ事也。自己を取放ちたりと、是れ好き詞也。是れに仍て自己を忘るべからすと云ふ事を、草分の中に書く。此段を能く見るべし。修行の肝要は、自己を守る一つ也。一切の煩悩は機の抜けたる処より起る也。只强く眼を着けて、十二時中万事の上に機を抜かさず。急度張懸けて守り、六賊煩悩を退治すべし。夢中とも抜けぬ程に守らで叶はず。随分守ると思ふても覚えずぬけて、彼の煩悩に負くへし。ともすれば意馬妄想の叢にかけ入り、心猿名利の梢にひよつひよつと移るべし。强く眼を着け、莫妄想の一句を轡づらと成して、急度引詰めて守るべし。刹那も機を抜かすへからすと也。
書き下し
慶安二の春、洞家の僧来り法要を問ふ。師示して曰く、仏道修行と云ふは自己を守ること也。曹洞宗に老僧も小僧も云ふ事也。自己を取放ちたりと、是れ好き詞也。是れに仍て自己を忘るべからすと云ふ事を、草分の中に書く。此段を能く見るべし。修行の肝要は、自己を守る一つ也。一切の煩悩は機の抜けたる処より起る也。只强く眼を着けて、十二時中万事の上に機を抜かさず。急度張懸けて守り、六賊煩悩を退治すべし。夢中とも抜けぬ程に守らで叶はず。随分守ると思ふても覚えずぬけて、彼の煩悩に負くへし。ともすれば意馬妄想の叢にかけ入り、心猿名利の梢にひよつひよつと移るべし。强く眼を着け、莫妄想の一句を轡づらと成して、急度引詰めて守るべし。刹那も機を抜かすへからすと也。
現代語訳
慶安二年の春、曹洞宗の僧が来て法の要を尋ねた。師は示して言われた。仏道修行とは、自己を守ることである。曹洞宗では老僧も小僧も、自己を取り放ったと言う。これは良い言葉である。これによって、自己を忘れてはならないということを、私は『草分』の中に書いた。この段をよく見なさい。修行の肝要は、自己を守ること一つである。一切の煩悩は、気迫が抜けたところから起こる。ただ強く目をつけて、一日中あらゆることの上で気迫を抜かさず、きっと張りつめて守り、六賊煩悩を退治しなさい。夢の中でも抜けないほどに守らなければならない。十分守っていると思っても知らず知らず抜けて、あの煩悩に負けてしまう。ともすれば、意の馬は妄想の草むらに駆け込み、心の猿は名利の梢にひょいひょいと移ってしまう。強く目をつけて、莫妄想の一句を手綱として、きっと引き締めて守りなさい。一瞬も気迫を抜かしてはならない、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、修行と云ふはなるほと强き心を用ふる事也。六賊とて六処にて本心を盗む者有り、此賊は我心の弱き処より起る也。然る間機を强く用ゐて、巳が心を睨付けて守るへし。皆聞きそこのうて無常と云はれて、はへ土をかき、無念と云はれてあつかり坊に用ゆる也。大なる錯也。なるほと强き心を守るべしと也。
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『驢鞍橋』卷下一日去る人自己を守らんとするに、取着き処無くして守れぬと云ふに示して曰く、中々好き合手こそあれ。先つ此身痛く痒く熱く寒く、四苦八苦満み満み不浄は積て湛へたり。扨て心中には八万四千の悪業煩悩の苦有り、やれやれいやな体哉。あな憎くの心め哉と此身心を合手にして、きつと睨付けて守るべし。之に增したる合手有らんや。我は始めより憂かりこの機がきつと備はり、此身に使はれ責めらるゝことかうゝて有りしに仍て、抜かしたうても自ら抜けす。左なき人は我悪いことに眼を付けて守るの外なし。必ずこの糞袋を合手にして、きつと張合て守るへし。如是なしてこそ、二王の機と云ふことをも知り、実も薄く成り、心も次第に自由に成るべし。総じて修行は、今使はるゝ様にすへき也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る処の小姓両人来り法要を問ふ。師示して曰く、修行と云ふは此身に離るゝ事也。先つ若き衆は身を不惜、主君に奉公をなすが能き也。如是浅き処に身を捨習つて功を尽さは、如何様の処にも自由に捨てらるべし。身心にさへ離るれば成仏也。
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『驢鞍橋』卷上去る暁衆に語て曰く毎暁時定つて道ならは三町計り行く間程、大事急に起つて中々切也。就中此二三年は、弥憂機にひしと責め詰めらるゝ也。時に一僧云、某の如きは守る処さへ取留めて、一処を守る機なし。師曰、工みて守る間にて知る事に非す、然れとも起る機を持たさる者は、巧みて授くるの外なし。扨亦守る処は念仏を申すも、幻化を観ずるも、無常を観ずるも一つ也。然れとも人人縁有る処有る物なるに仍て、さまざまに説有り、只縁有る処を守るべし。信心强き則んは、何れも替り無し。大略は皆娑婆に心を抜かして沈み居らんと也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、仏道修行と云ふは、二王不動の大堅固の機を受けて修すること、一つ也。此機を以て身心を責滅すより外、別に仏法を知らず。若し我法に入らんと思ふ人は、機をひつ立、眼をすゑ、二王不動悪魔降伏の形像の機を受け、二王心を守て悪業煩悩を滅すべし。古来より此仏像の沙汰したる人聞ねども、如何にしても我胸に相応して用ゐて、万事に自由也。仏は勇猛精進と諸経に多く説き給ふと見えたり。此機を受けずして煩悩に勝つと不可有。第一に仏像の機を受くると云ふことを能く可知。無精にして此機移るべからす、専ら仏像に眼を著けて二六時中金剛心を守るべしと也。
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『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、修行と云ふ物、中中上り難き物也。我今十二時中坐禅ならさる事なし。喩へは大勢に交り、上下へかえし、相撲を取り、躍をゝとり、何程はね狂ひたりとも、坐禅の機少しもたじろくへからす。また好く若き時より心つきて自己を守りしが、其時分よりはや念には勝つてばかされざる也。夫れより次第よく修しつめ何たる事にもたじろかぬほどに仕付けたれども、まだ夫れでも生死の為めには不成、中々大儀な物也。