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驢鞍橋 / 卷中

師對衆曰く、先年三州にて、去る者、佛像を木履にして、馬舟抔にしけるが。頓てどすに成り、もらびの身と成る去る和尙見て曰く、汝佛像を破りし罰にて、加樣の形も成る、無慚の事哉とありけれは、どすが曰く我は佛像を破りし罰にてどすと成る、佛像は何の罰にて我に馬舟にせられたりや。和尙無對。各は何と答へんや。衆無語師答て曰く其心かとす也。やれ善人の佛を作り寺を造るは、皆我身心を造り立る也。又惡人の佛を破り寺を破るは、我身心を破る也。木佛に善惡の心なし。皆我心にて我と作す所也

新字:師対衆曰く、先年三州にて、去る者、仏像を木履にして、馬舟抔にしけるが。頓てどすに成り、もらびの身と成る去る和尚見て曰く、汝仏像を破りし罰にて、加様の形も成る、無慚の事哉とありけれは、どすが曰く我は仏像を破りし罰にてどすと成る、仏像は何の罰にて我に馬舟にせられたりや。和尚無対。各は何と答へんや。衆無語師答て曰く其心かとす也。やれ善人の仏を作り寺を造るは、皆我身心を造り立る也。又悪人の仏を破り寺を破るは、我身心を破る也。木仏に善悪の心なし。皆我心にて我と作す所也

書き下し

師衆に対して曰く、先年三州にて、去る者、仏像を木履にして、馬舟抔にしけるが。頓てどすに成り、もらびの身と成る去る和尚見て曰く、汝仏像を破りし罰にて、加様の形も成る、無慚の事哉とありけれは、どすが曰く我は仏像を破りし罰にてどすと成る、仏像は何の罰にて我に馬舟にせられたりや。和尚無対。各は何と答へんや。衆無語師答て曰く其心かとす也。やれ善人の仏を作り寺を造るは、皆我身心を造り立る也。又悪人の仏を破り寺を破るは、我身心を破る也。木仏に善悪の心なし。皆我心にて我と作す所也

現代語訳

師が衆に対して言われた。先年、三河の国で、ある者が仏像を木履(下駄)にしたり、馬の飼い葉桶にしたりしていたが、やがて重い病(原文「どす」)になり、物乞いの身となった。ある和尚がそれを見て言った。「お前は仏像を壊した罰で、このような姿になったのだ。無慚なことよ」。するとその者は言った。「私は仏像を壊した罰で病になった。では仏像は何の罰で私に飼い葉桶にされたのか」。和尚は答えられなかった。各々ならどう答えるか。衆は答えがなかった。師が答えて言われた。「その心こそが病なのだ。よいか、善人が仏を作り寺を造るのは、みな自分の身心を造り立てるのである。また悪人が仏を壊し寺を壊すのは、自分の身心を壊すのである。木仏には善悪の心はない。すべて自分の心で自分が作すところなのだ」と。

解説

仏像を粗末に扱った男が重い病にかかり、和尚が罰だと責めると、男は仏像のほうは何の罰で下駄にされたのかと言い返した。原文の「どす」は当時の病への差別的な呼び名で、病を罰と見る考え方自体も今日では受け入れられない。正三の答えの眼目は、罰を下す仏が外にいるのではなく、仏を敬うことも壊すことも、自分の心を作り、また壊すことだという点にある。木の仏に善悪はなく、すべては自分の心がしていることだというのである。人の見ていない所での物の扱い方が、自分自身を形づくると心得たい。

この章句が説くこと

心因果仏像善悪自業敬い

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