十善法語 / 巻第十二・不邪見戒之下
善惡報應ノ空シカラヌコトハ。古今聖賢ノ通義シヤ。易ニ積善ノ家ニハ必ス餘慶アリ。積不善ノ家ニハ必ス餘殃アリト。看ヨ。世間俗中スラカクアルシヤ。此言カ虛ナラスハ。業果アルモ信セラルル。正知見ニモ近カルヘキシヤ。假令未タ三世アルコトヲ知ル地位ニ至ラスドモ。邪見トハ云レヌシヤ。又孔子ノ家語ニ。子貢問於孔子曰。死者有知乎。將無知乎。子曰。吾欲言死之有知。將恐孝子順孫妨生以送死。吾欲言死之無知。將恐不孝之子弃其親不葬。賜欲知死者有知與無知。非今之急。後自知之トアル。此等面白キコトシヤ。經中ニモ世尊ハ十八難ヲ答タマハストアル。死後去コトアリ去コトナキハ。自知セシムヘキ趣シヤ。
新字:善悪報応ノ空シカラヌコトハ。古今聖賢ノ通義シヤ。易ニ積善ノ家ニハ必ス余慶アリ。積不善ノ家ニハ必ス余殃アリト。看ヨ。世間俗中スラカクアルシヤ。此言カ虚ナラスハ。業果アルモ信セラルル。正知見ニモ近カルヘキシヤ。仮令未タ三世アルコトヲ知ル地位ニ至ラスドモ。邪見トハ云レヌシヤ。又孔子ノ家語ニ。子貢問於孔子曰。死者有知乎。将無知乎。子曰。吾欲言死之有知。将恐孝子順孫妨生以送死。吾欲言死之無知。将恐不孝之子弃其親不葬。賜欲知死者有知与無知。非今之急。後自知之トアル。此等面白キコトシヤ。経中ニモ世尊ハ十八難ヲ答タマハストアル。死後去コトアリ去コトナキハ。自知セシムヘキ趣シヤ。
書き下し
善悪報応ノ空シカラヌコトハ。古今聖賢ノ通義シヤ。易ニ積善ノ家ニハ必ス余慶アリ。積不善ノ家ニハ必ス余殃アリト。看ヨ。世間俗中スラカクアルシヤ。此言カ虚ナラスハ。業果アルモ信セラルル。正知見ニモ近カルヘキシヤ。仮令未タ三世アルコトヲ知ル地位ニ至ラスドモ。邪見トハ云レヌシヤ。又孔子ノ家語ニ。子貢問於孔子曰。死者有知乎。将無知乎。子曰。吾欲言死之有知。将恐孝子順孫妨生以送死。吾欲言死之無知。将恐不孝之子弃其親不葬。賜欲知死者有知与無知。非今之急。後自知之トアル。此等面白キコトシヤ。経中ニモ世尊ハ十八難ヲ答タマハストアル。死後去コトアリ去コトナキハ。自知セシムヘキ趣シヤ。
現代語訳
善悪の報いが空しくないことは、古今の聖賢に共通する教えである。易経に、善を積む家には必ず後々まで喜びがあり、不善を積む家には必ず後々まで災いがある、とある。見よ。世間の俗な教えの中でさえこのようにあるのだ。この言葉が偽りでないならば、業の果報があることも信じられる。正しい知見にも近いはずである。たとえまだ三世(過去・現在・未来)があることを知る段階に至っていなくても、邪見とは言えないのである。また孔子家語に、子貢が孔子に、死者には知覚があるのでしょうか、それとも無いのでしょうか、と問うた。孔子は言った。死者に知覚があると言おうとすれば、孝行な子や孫が生きている者の暮らしを損ねてまで死者を送ることを恐れる。死者に知覚が無いと言おうとすれば、不孝な子が親を捨てて葬らないことを恐れる。賜(子貢)よ、死者に知覚があるか無いかを知りたいというのは、今の急務ではない。後になれば自然に分かるだろう、とある。これらは面白いことである。経の中にも、世尊は十八の問いには答えられなかった、とある。死後に行く所があるか無いかは、自分で知らせるべき趣旨なのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『修証義』第一章 総序今の世に因果を知らず。業報を明らめず。三世を知らず、善悪を弁へざる邪見の党侶には群すべからず。大凡因果の道理、歴然として私なし。造悪の者は堕ち。修善の者は陞る、毫釐も貳はざるなり。若し因果亡じて虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。
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『十善法語』巻第五・不綺語戒父母ノ許ナケレハ。朋友ニ交ラヌ。妻ヲ要ラヌ。父母好マスハ。一切ノ学問文辞。諸ノ技芸。ミナ為スマシキソ。此為ヌ処ニ誠ノ学問カ成就スルシヤ。父母カ嫌ハハ。一巻ノ孝経モ手ニ取マシキソ。コノ手ニ取ラヌ処ニ誠ノ孝経アルシヤ。此孝道立テ天ノ福ヲ得ル。昔虞舜ノ玄徳升リ聞エテ堯ノ譲ヲ受ケシ。此父母ニ孝ヲ全スル処ニ。四海ノ富。王者ノ位ハ顕ルル。世ニ孝道具テ。而モ貧賤患難ニ身ヲ終ルコトアル。愚ナルモノハ其徳ナキヤウニ思フベケレトモ。サウテナイ。正眼ニ看レハ。人人箇箇其徳錯ラヌ。但事ニ遅速アリテ。或ハ現在ニ其報ヲ得。或ハ来世ニ其果報ヲ得ル。四海ノ富。王者ノ位ノミナラス。三十三天ガ此孝養ノ中ニ具足スル。梵王宮ガ此孝養ノ中ニ具足スル。帝釈梵王宮ノミナラス。無漏聖道ノ基トナル。
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『十善法語』巻第十・不邪見戒之上断見ニイロイロ有レドモ。マヅ善ヲ為シテ善ノ報ナク。悪ヲ作シテ悪ノ報ナク。神ト云モノ。仏ト云モノ。今現ニ見ルヘキナラネバ。コレモナキコトト思ヒ定ムルヲ。断見ト云。常見モ種種ナレドモ。且ク人ハ常ニ人トナル。畜ハ常ニ畜トナル。人ノ畜生トナルヘキ理ナク。畜生虫蟻ノ類カ人トナルヘキ理モナキト思ヒ定ムルヲ。常見ト云。正知見ト云ハ甚深ナレドモ。且クカウシヤ。仏菩薩モ世ニマシマス。賢人聖者モ有ルベク。神祇モ目ニコソ見エネ有ルヘク。善ヲ作セハ決定其報有リ。悪ヲ作セハ決定ソノ報有ルト信スレハ。此戒ハ全キシヤ。
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『十善法語』巻第九・不瞋恚戒又経論ノ中ニ此説アルシヤ。却初ハ人寿無量歳住シテ。得失是非ナシ。善悪ノ名字ナシ。然ルニ此心動作アリ。暫モ止息スヘキニ非ス。此心相転変シ。情欲兆スニヨリテ。次第ニ飲食屋宅国都聚落。男女貴賤ワカレ種種ノ人事オコル。此人事差別ノ中ニ。世界ノ法トシテ。悪法增長スレハ寿命モ福徳モ相好モ次第ニ減損ス。此時ヲ減刧ノ時節ト云。善法增長スレハ。寿命モ福徳モ相好モ次第ニ增長スル此時ヲ增却ノ時節ト云。
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荀子・大略篇凡そ物は乗じて来たる有り。其の出づるに乗ずる者は、是れ其の反(かへ)りなり。
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『墨子』法儀昔の聖王、禹・湯・文・武は、兼ねて天下の百姓を愛し、率いて以て天を尊び鬼に事う。其の人を利すること多し、故に天、之を福し、立てて天子と為さしめ、天下の諸侯、皆な賓として之に事う。暴王、桀・紂・幽・厲は、兼ねて天下の百姓を惡み、率いて以て天を詬り鬼を侮る。其の人を賊うこと多し、故に天、之を禍し、遂に其の國家を失わしめ、身死して天下に僇と為り、後世の子孫、之を毁り、今に至るまで息まず。故に不善を為して以て禍を得る者は、桀・紂・幽・厲是れなり。人を愛し人を利して以て福を得る者は、禹・湯・文・武是れなり。人を愛し人を利して以て福を得る者は有り、人を惡み人を賊うて以て禍を得る者も亦た有り。