驢鞍橋 / 卷中
師□□曰く、此の前、關東の去る渡にて、禪僧出舟を喚ふ。船中に淨土の上人あり曰く、達磨の如くなんそ芦の葉に乘り來らざる。僧無語。又其僧追付き、終に上人を把住して曰く、汝善導の如く三尊の彌陀を吹け、我蘆に乘るへし。時に上人南無阿彌陀佛と三度吹く。僧又無語。是れ二重の敗闘也。此の僧に代て云つて看よ。衆無語。師呵して曰く法のすべ惡しきに仍て云はれすと云つて便ち代て曰く、我は達磨の直指人心見性成佛の道を學ぶ也。更に有相の神通を學ばす。其方は、成佛の道を忘れ、神通竒特を增ひめさる那、愚な人世と云はんすと也。
新字:師□□曰く、此の前、関東の去る渡にて、禅僧出舟を喚ふ。船中に浄土の上人あり曰く、達磨の如くなんそ芦の葉に乗り来らざる。僧無語。又其僧追付き、終に上人を把住して曰く、汝善導の如く三尊の弥陀を吹け、我蘆に乗るへし。時に上人南無阿弥陀仏と三度吹く。僧又無語。是れ二重の敗闘也。此の僧に代て云つて看よ。衆無語。師呵して曰く法のすべ悪しきに仍て云はれすと云つて便ち代て曰く、我は達磨の直指人心見性成仏の道を学ぶ也。更に有相の神通を学ばす。其方は、成仏の道を忘れ、神通奇特を增ひめさる那、愚な人世と云はんすと也。
書き下し
師□□曰く、此の前、関東の去る渡にて、禅僧出舟を喚ふ。船中に浄土の上人あり曰く、達磨の如くなんそ芦の葉に乗り来らざる。僧無語。又其僧追付き、終に上人を把住して曰く、汝善導の如く三尊の弥陀を吹け、我蘆に乗るへし。時に上人南無阿弥陀仏と三度吹く。僧又無語。是れ二重の敗闘也。此の僧に代て云つて看よ。衆無語。師呵して曰く法のすべ悪しきに仍て云はれすと云つて便ち代て曰く、我は達磨の直指人心見性成仏の道を学ぶ也。更に有相の神通を学ばす。其方は、成仏の道を忘れ、神通奇特を增ひめさる那、愚な人世と云はんすと也。
現代語訳
師が言われた(冒頭の二字は読めない)。以前、関東のある渡し場で、禅僧が舟を出せと呼んだ。舟の中に浄土宗の上人がいて言った。「達磨のように、なぜ芦の葉に乗って来ないのか」。僧は答えがなかった。また、その僧は追いついて、ついに上人をつかまえて言った。「お前は善導のように三尊の弥陀を吹き出してみよ。そうしたら私は芦に乗ろう」。その時上人は南無阿弥陀仏と三度吹いた。僧はまた答えがなかった。これは二重の負けである。この僧に代わって言ってみよ。衆は答えがなかった。師は叱って、法の手だてが悪いから言えないのだと言い、すぐに代わって言われた。「私は達磨の直指人心・見性成仏の道を学ぶのである。有相の神通を学びはしない。そなたは成仏の道を忘れて、神通奇特を追い求めておられるのか、愚かな人だ」と言っただろう、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷下或人曰く、師この前、爰許に御登りの時、某問ふ、当地にて儒道仏道ましおとりの論を成す者多し。何れかましなるや。師曰く、夫れは源をくらへて知るべし、釈迦と孔子と徳大にかはれり。その証拠は、今時明徳を用ゆる者、京中に誰かあるや、終に一人も聞かす。仏法は毎日誓願寺等にて姥かゝの念仏をまをすを見よ、大なることに非すや。さて念仏をまをす理、少しも明徳を守るにおとらす。若しおとりたると云はば、その者をつれ来れ、我論して聞かすへし。誠に論まけは、頸をきらるべしとなり。
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『驢鞍橋』卷中師衆に問ふ。正法に奇特無し。正法何んとしてか奇特なしや。時に俗士有り云ふ、本来無一物なるか故に。師云はく、達磨昔日芦に乗りたまふ奇特あり、是れ邪法なりや。士云ふ、正法の上に奇特なし、夫は人に付いた徳也。師之を肯ふ。
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『驢鞍橋』卷中士問ふ、徳は尤も替るべし。去なから我一人の成仏に於ては替り有るへからず。趙州抔さへ古仏と申したる也。師云はく、夫は時の人あがめて喚ひし言也。達磨は元より悟入強き人也。然りといへ共、如来と一枚の仏境界には有るへからす。境界に遥に隔有る事也。今時の人、様子を知らすして、悟入すれは如来と一枚と思ひ、結句祖師禅とて、如来禅より上なりなとゝ云ふ人有り、扨て扨てそでも無い事也。迦葉阿難を始め仏の小指にも及びたまふへからず。
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『驢鞍橋』卷上師又曰く、其方の振は仏法を持たれたり出しめされよ。彼者、少しも存せずと云ふ。師曰、いやいや一物有り、早々出しめされよと責め給ふ。時に彼者去る和尚より趙州洗鉢盂の話を授かり、脫体に入りかゝり候と云ふ。師曰く、三宝とて世人の宝と成る僧が、還つて左も無き事を授けて、人を損ふと是非も無き事也。夫れ言句に徹すると云ふ事も無きには非ず、縦ひ微したりとも、餓鬼畜生の心は休むへからす。我も私見性少し有れども何の用にも立たす、結句今時見性したりと云ふ人は、大形人悪く成る也。其方も只土に成て念仏修行せらるべし。彼者問、修行とはいかなる事なりや。師答て曰、我を尽す事也。又問、土にはなにと成り候や。師答て曰、其方が胸の中の知解妄想を悉く打捨て、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と道理を申しけし、我を申しけして、虚空一枚に成るを土に成て成仏する修行と云ふ也。
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『驢鞍橋』卷中問ふ、達磨は、九年にして漸く二祖一人を接得したまふ。大慧は、末祖なれ共一時に十三人接出す。然れは達磨は、大慧より人を度すと下手なりや。師答て曰く、縦ひ小見解あり共、段々の様子あり。大慧の十三人を打まるめても、達磨の一箇に及ふへからず。士又問ふ、達磨は釈迦と同き成仏の人なりや。師云はく、達磨は、禅宗こそ用ゆれ、三界の大導師釈迦如来とは格別也。
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『驢鞍橋』卷中師衆に問ふ。一条の白棒天地を翻し、西来達磨の宗を滅却す。此の意会すや。一僧云ふ、直に滅却也。師云はく、達磨宗は好き事なるに、なせ滅却したぞ。僧云ふ、法の本法は無法也。師云はく、すまぬに仍て、早や語を引廻すと也。
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