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驢鞍橋 / 卷中

問ふ、正法無奇特。此の意如何。答て曰く、正法とは無爲の法、邪法とは有爲の法也。問ふ、如何なる人も、息斷えぬれば其相おそろし。是れ何の道理なりや。答て曰く、惡業煩惱の直に腐りたる像なる故に怖しき也。問ふ、毘婆尸佛早認心。直至今不得妙。此の意如何。答て曰く、夫よ心を留るとは。師因に源長老に問ふて曰く、此の句會すや。長老曰く、毘婆尸佛といへは、早や心を留る義耶。師云はく、鄰まて云れたりと也。問ふ、直趣無上菩提。莫管一切是非。此の意如何。答て曰く、我にはなれ、一切にはなるる事也。

新字:問ふ、正法無奇特。此の意如何。答て曰く、正法とは無為の法、邪法とは有為の法也。問ふ、如何なる人も、息断えぬれば其相おそろし。是れ何の道理なりや。答て曰く、悪業煩悩の直に腐りたる像なる故に怖しき也。問ふ、毘婆尸仏早認心。直至今不得妙。此の意如何。答て曰く、夫よ心を留るとは。師因に源長老に問ふて曰く、此の句会すや。長老曰く、毘婆尸仏といへは、早や心を留る義耶。師云はく、鄰まて云れたりと也。問ふ、直趣無上菩提。莫管一切是非。此の意如何。答て曰く、我にはなれ、一切にはなるる事也。

書き下し

問ふ、正法に奇特無し。此の意如何。答て曰く、正法とは無為の法、邪法とは有為の法也。問ふ、如何なる人も、息断えぬれば其相おそろし。是れ何の道理なりや。答て曰く、悪業煩悩の直に腐りたる像なる故に怖しき也。問ふ、毘婆尸仏早く心を認む、直に今に至るまで妙を得ず。此の意如何。答て曰く、夫よ心を留るとは。師因に源長老に問ふて曰く、此の句会すや。長老曰く、毘婆尸仏といへは、早や心を留る義耶。師云はく、隣まて云れたりと也。問ふ、直に無上菩提に趣き、一切の是非を管すること莫れ。此の意如何。答て曰く、我にはなれ、一切にはなるる事也。

現代語訳

問うた。「正法には奇特なことがない、とはどういう意味ですか」。答えて言われた。「正法とは作為のない法、邪法とは作為のある法である」。問うた。「どんな人でも、息が絶えるとその姿は恐ろしい。これはどういう道理ですか」。答えて言われた。「悪業と煩悩がそのまま腐った姿だから恐ろしいのである」。問うた。「『毘婆尸仏は早くから心を留めたが、今に至るまで妙を得ていない』とはどういう意味ですか」。答えて言われた。「それよ、心を留めるということは」。師はついでに源長老に問うて言われた。「この句が分かるか」。長老は言った。「毘婆尸仏と言えば、もう心を留めるという意味でしょうか」。師は言われた。「隣まではたどり着いたな」。問うた。「まっすぐ無上の悟りに向かい、一切の是非にかかわるな、とはどういう意味ですか」。答えて言われた。「我を離れ、一切を離れることである」。

解説

問答集の最後の部分で、正法と邪法、死相の恐ろしさ、毘婆尸仏の句などが続けて問われる。正法に奇特がないとは、作為のない当たり前の働きこそが本物で、人を驚かせる不思議はむしろ作為の産物だということである。毘婆尸仏は過去七仏の第一で、はるか昔から心を留めて求めてもなお妙を得られないという句は、心を留めること自体が障りになることを示す。正三は源長老の答えを「隣まで来た」と評し、あと一歩の見処を惜しんでいる。目立つ成果や特別な手法を求めるより、作為のない当たり前の働きを大事にせよと教えている。

この章句が説くこと

正法無為奇特毘婆尸仏是非作為

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