驢鞍橋 / 卷中
問ふ、六祖大師曰。百物不思。念悉除却。一念絕即死。別處受生。此の意如何。師云はく、あつかぼうせんと成て、正念を絕すれば、忽ち惡趣に落つ。總じて念を以て修行はする也。
新字:問ふ、六祖大師曰。百物不思。念悉除却。一念絶即死。別処受生。此の意如何。師云はく、あつかぼうせんと成て、正念を絶すれば、忽ち悪趣に落つ。総じて念を以て修行はする也。
書き下し
問ふ、六祖大師曰く、百物思わず、念悉く除却すれば、一念絶えて即ち死し、別処に生を受く。此の意如何。師云はく、あつかぼうせんと成て、正念を絶すれば、忽ち悪趣に落つ。総じて念を以て修行はする也。
現代語訳
問うた。「六祖大師は言われた。『何も思わず、念をすべて除き去れば、一念が絶えてたちまち死に、別のところに生を受ける』。この意味はどういうことですか」。師は言われた。「ぼんやりと呆けてしまって、正しい念を絶やせば、たちまち悪い世界に落ちる。そもそも修行は念によってするものなのである」。
解説
六祖慧能の言葉として伝わるこの句は、何も思わない状態を悟りと取り違えることへの戒めである。『六祖壇経』には、念を絶やせば死んで別の所に生まれるという趣旨の言葉が見える。正三はこれを受けて、ぼんやりと呆けて正しい念を絶やせば悪趣に落ちると説き、修行は念によってするものだと言い切った。無念無想をただの空白と誤解する風潮に対し、張りつめた念を保つことを重んじた正三らしい答えである。何も考えないことと、雑念に振り回されないこととは違うと教えている。
この章句が説くこと
念正念六祖無念修行悪趣
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日曰く、今時の修行者、皆古人の嫌道を免かるべからず。大略無門の禅の箴、或は大恵八種の嫌道等に落ち居て、修行と思ひ、法を得たり抔と思はるゝと見えたり。故に抜けがら坐禅を為し、あつか忘然と成りて、物を思はざる処を無念無心と思ふ人あり。是れ大なる錯也。如是用ふる者は機へりて病者と成り、気違と成る也。夫れ仏法の無念無心と云ふは、一切の上に用ふる無念無心也。悲む時も、悅ふ時も、万事の上に使ふ無念無心也。其故は仏涅槃の時、迦葉阿難を始め皆悲み玉ふ。是れをも有心なりと云はんや。扨亦此無念を用ふる坐禅の筋と云ふは、只勇猛心を用ふる一つ也。能く此筋を受くべし。此筋を弁へたる人は、自らの修行弱しと云ふとも、諸の修行者の為めに宝也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る遁世者来て、修行の用心を問ふ。師示して曰く、万事を打置て唯死に習はるべし。常に死に習つて、死の隙を明け、誠に死する時、驚かぬやうにすべし。□て死に習はるべし。彼者云、盲安杖を常に披見仕る、是等を見る事も悪しや。師曰、見て覚ゆる事は皆怨也。只念仏を以て死を軽くすべし。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、修行と云ふはなるほと强き心を用ふる事也。六賊とて六処にて本心を盗む者有り、此賊は我心の弱き処より起る也。然る間機を强く用ゐて、巳が心を睨付けて守るへし。皆聞きそこのうて無常と云はれて、はへ土をかき、無念と云はれてあつかり坊に用ゆる也。大なる錯也。なるほと强き心を守るべしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日或僧に示して曰く、出家は古則を守り習ふが好き也。趙州の無を見るべし。機を强く用ひ、十二時中一切の上に於て、無々々々と守り、夢中ともに抜けぬ程にすべし。就中死を守るは失なしと也。
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『驢鞍橋』卷下夜話に曰く、我始め空々坐禅を能きことに思ふて久く用ゐけるが、一日、無念無心は釈迦仏に勝るはあるべからす。然るに仏さまざま有念を使つて、一代経を説き給ふは是非を分る上にて無念の道理有るべし。あつかぼうせんとしたることにあらじと思ひ替て、果眼に用ゐて、少し元に合ふては、臆病気退く也。各も是非を分ち、万事を作す上に無念にて居る坐禅をし習ふべし。
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『驢鞍橋』卷上一日僧来りて問ふ。去る僧古則を提撕して死しけるか、幽霊に成りたると承はる。此道理有りや。師答て曰、悟を求めて死したらばさぞ有るべし、兎角悟を求むる修行はあぶなしと也。
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