驢鞍橋 / 卷中
問ふ、入得世間。出世無餘。此の意如何。師答て云はく、世法は皆是れ聖人の敎也。入得たる人を聖人と云ふと見えたり。然れは聖人と佛とは遠からじと思ふ也。又問ふ、仁義を守る人を、世間に入得たる人と申すへきや。師云はく、是れ入得たる人に非す、今入り習ふ人なり。君子に仁義有り、僧に法有りと惡く云へりと也。
新字:問ふ、入得世間。出世無余。此の意如何。師答て云はく、世法は皆是れ聖人の教也。入得たる人を聖人と云ふと見えたり。然れは聖人と仏とは遠からじと思ふ也。又問ふ、仁義を守る人を、世間に入得たる人と申すへきや。師云はく、是れ入得たる人に非す、今入り習ふ人なり。君子に仁義有り、僧に法有りと悪く云へりと也。
書き下し
問ふ、世間に入り得れば、出世に余り無し。此の意如何。師答て云はく、世法は皆是れ聖人の教也。入得たる人を聖人と云ふと見えたり。然れは聖人と仏とは遠からじと思ふ也。又問ふ、仁義を守る人を、世間に入得たる人と申すへきや。師云はく、是れ入得たる人に非す、今入り習ふ人なり。君子に仁義有り、僧に法有りと悪く云へりと也。
現代語訳
問うた。「世間に入りきることができれば、出世間(仏道)に余すところはない。この意味はどういうことですか」。師は答えて言われた。「世間の法はみな聖人の教えである。それに入りきった人を聖人というのだと思われる。だから聖人と仏とは遠くないと思うのである」。また問うた。「仁義を守る人を、世間に入りきった人と申すべきでしょうか」。師は言われた。「それは入りきった人ではない。今、入り習っている人である。『君子には仁義があり、僧には法がある』と言うのは、よくない言い方である」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷中〇一、仏語に、世間に入得すれは、出世余り無しと説き給へり。此の文は世法にて成仏するの理也。然れは世法則ち仏法也。華厳に仏法は世間法に異ならず。世間法は仏法に異ならずと如此説き給へり。若し世法にて成仏する道理を用ゐざれは、一切仏意を知らさる人也、と云ふは、此の仏説の如くんは、世間を其の儘仏法に用ひすんは、仏法に非すと也。然る間、世法を仏法になし給へかしとの念願也。其の用には四民抔か好き也。殊に盲安杖天然と書き合はせたり。始めは世法に書き、後には成仏になしる理也。
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『驢鞍橋』卷下一日、去る人来り、今時の出家の善悪を見分得ずと云ふに、示して曰く、只出家を宜しとし、入家を悪しとす。謂ふは幼少より寺を望み、位を望み思つて習学する者は、皆是入家、餓鬼入道也。是れを離て仏道を思ふ者、真の出家也。
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『驢鞍橋』卷下一日、山居を好む者に示して曰く、修行は世間にあつて仕たるか好き也。山中には必ず成仏せば、二十年山にある一角仙人、何として女人を頸に乗せて山を出てたりや。今時の山居者、結句一角仙人程の修行もあるべからす。大略世間の者を非に見下し、我独り能く成り罪を作り居るつれ計なるべしと也。
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『驢鞍橋』卷下一日、俗士来て問ふ、修行者に邪正有りと承る、いか様なるを正法の修行者と申すや。師答へて曰く、我を尽すを正法とす、智恵者は智恵我を立て、慈悲者は慈悲我を立て、坐禅者は坐禅我を立て、見解者は見解我を立つ、何としても常の人よりは上に成て居るべし。大形我立仏法也。如何なる賤き者なりとも、真実さへ有れは正三は負る也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る者問ふ。同し位の人にして僧と俗とは何れか修行の為めに是ならんや。師答て曰く、大すうを云はば出家は諸手打、在家は片手打也。在家は道を障ふる縁多し、出家は碍ふる縁少し。然れども今時の出家衆は、皆仏法嫌ひ也、俗の半分も道にすく人なし、其上機だらりとして不義心多し。扨侍は主を持つ機に張合ひあり、亦天然と死を守る心有り、結句今時は修行は俗かする也。乍去大真実の人にしては出家の人徳大也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る人来て成仏を問ふ。師示して曰く、成仏と云ふは本来空に成る事也。元の如く我もなく、人も無く、法も無く、仏も無く、一切にくつとつゝ離れて、手を打払ふて際を明くる事也。悟にても何にても有らは、ろでは無き也。婆子焼庵の古則抔好き証拠也。亦曰く、隙なき人折々来る事無用也、我云ふ程の事は徳用、草分等に書く。あの外は云ふことなし。是れを好く見らるべし。彼者、随分修行仕れど少しも上らすと云ふ。師曰、たやすく成る事に非す、其やうに安く成る事ならば、我は羅漢にも菩薩にも成るへきが未た餓鬼畜生を離れす、然る間次第つよに修すへし。一旦頭の火を払ふ様なりとも、跡つゞかざれば用に立たす、急に成る事と思はゞ退屈すへしと也。
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