驢鞍橋 / 卷上
一日曰く、今時の修行者、皆古人の嫌道を免かるべからず。大略無門の禪の箴、或は大惠八種の嫌道等に落ち居て、修行と思ひ、法を得たり抔と思はるゝと見えたり。故に抜けがら坐禪を爲し、あつか忘然と成りて、物を思はざる處を無念無心と思ふ人あり。是れ大なる錯也。如是用ふる者は機へりて病者と成り、氣違と成る也。夫れ佛法の無念無心と云ふは、一切の上に用ふる無念無心也。悲む時も、悅ふ時も、萬事の上に使ふ無念無心也。其故は佛涅槃の時、迦葉阿難を始め皆悲み玉ふ。是れをも有心なりと云はんや。扨亦此無念を用ふる坐禪の筋と云ふは、只勇猛心を用ふる一つ也。能く此筋を受くべし。此筋を辨へたる人は、自らの修行弱しと云ふとも、諸の修行者の爲めに寳也。
新字:一日曰く、今時の修行者、皆古人の嫌道を免かるべからず。大略無門の禅の箴、或は大恵八種の嫌道等に落ち居て、修行と思ひ、法を得たり抔と思はるゝと見えたり。故に抜けがら坐禅を為し、あつか忘然と成りて、物を思はざる処を無念無心と思ふ人あり。是れ大なる錯也。如是用ふる者は機へりて病者と成り、気違と成る也。夫れ仏法の無念無心と云ふは、一切の上に用ふる無念無心也。悲む時も、悅ふ時も、万事の上に使ふ無念無心也。其故は仏涅槃の時、迦葉阿難を始め皆悲み玉ふ。是れをも有心なりと云はんや。扨亦此無念を用ふる坐禅の筋と云ふは、只勇猛心を用ふる一つ也。能く此筋を受くべし。此筋を弁へたる人は、自らの修行弱しと云ふとも、諸の修行者の為めに宝也。
書き下し
一日曰く、今時の修行者、皆古人の嫌道を免かるべからず。大略無門の禅の箴、或は大恵八種の嫌道等に落ち居て、修行と思ひ、法を得たり抔と思はるゝと見えたり。故に抜けがら坐禅を為し、あつか忘然と成りて、物を思はざる処を無念無心と思ふ人あり。是れ大なる錯也。如是用ふる者は機へりて病者と成り、気違と成る也。夫れ仏法の無念無心と云ふは、一切の上に用ふる無念無心也。悲む時も、悅ふ時も、万事の上に使ふ無念無心也。其故は仏涅槃の時、迦葉阿難を始め皆悲み玉ふ。是れをも有心なりと云はんや。扨亦此無念を用ふる坐禅の筋と云ふは、只勇猛心を用ふる一つ也。能く此筋を受くべし。此筋を弁へたる人は、自らの修行弱しと云ふとも、諸の修行者の為めに宝也。
現代語訳
ある日言われた。今の修行者は、みな古人が戒めた誤りを免れていない。たいていは、無門の禅箴や、大慧の八種の戒めなどに落ちていながら、修行だと思い、法を得たなどと思っていると見える。だから抜け殻の坐禅をして、ぼんやりと茫然となり、物を思わないところを無念無心と思う人がいる。これは大きな誤りである。このように用いる者は、気迫が減って病人となり、気が違ってしまう。そもそも仏法の無念無心というのは、一切の上に用いる無念無心である。悲しむときも、喜ぶときも、万事の上に使う無念無心である。そのわけは、仏が涅槃に入られたとき、迦葉や阿難をはじめ、みな悲しまれた。これをも有心と言えようか。さてまた、この無念を用いる坐禅の筋というのは、ただ勇猛心を用いること一つである。よくこの筋を受けなさい。この筋をわきまえた人は、自らの修行は弱いといっても、諸々の修行者のための宝である、と。
解説
この章句が説くこと
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