驢鞍橋 / 卷上
一日去る人來て成佛を問ふ。師示して曰く、成佛と云ふは本來空に成る事也。元の如く我もなく、人も無く、法も無く、佛も無く、一切にくつとつゝ離れて、手を打拂ふて際を明くる事也。悟にても何にても有らは、ろでは無き也。婆子燒庵の古則抔好き證據也。亦曰く、隙なき人折々來る事無用也、我云ふ程の事は德用、草分等に書く。あの外は云ふことなし。是れを好く見らるべし。彼者、隨分修行仕れど少しも上らすと云ふ。師曰、たやすく成る事に非す、其やうに安く成る事ならば、我は羅漢にも菩薩にも成るへきが未た餓鬼畜生を離れす、然る間次第つよに修すへし。一旦頭の火を拂ふ樣なりとも、跡つゞかざれば用に立たす、急に成る事と思はゞ退屈すへしと也。
新字:一日去る人来て成仏を問ふ。師示して曰く、成仏と云ふは本来空に成る事也。元の如く我もなく、人も無く、法も無く、仏も無く、一切にくつとつゝ離れて、手を打払ふて際を明くる事也。悟にても何にても有らは、ろでは無き也。婆子焼庵の古則抔好き証拠也。亦曰く、隙なき人折々来る事無用也、我云ふ程の事は徳用、草分等に書く。あの外は云ふことなし。是れを好く見らるべし。彼者、随分修行仕れど少しも上らすと云ふ。師曰、たやすく成る事に非す、其やうに安く成る事ならば、我は羅漢にも菩薩にも成るへきが未た餓鬼畜生を離れす、然る間次第つよに修すへし。一旦頭の火を払ふ様なりとも、跡つゞかざれば用に立たす、急に成る事と思はゞ退屈すへしと也。
書き下し
一日去る人来て成仏を問ふ。師示して曰く、成仏と云ふは本来空に成る事也。元の如く我もなく、人も無く、法も無く、仏も無く、一切にくつとつゝ離れて、手を打払ふて際を明くる事也。悟にても何にても有らは、ろでは無き也。婆子焼庵の古則抔好き証拠也。亦曰く、隙なき人折々来る事無用也、我云ふ程の事は徳用、草分等に書く。あの外は云ふことなし。是れを好く見らるべし。彼者、随分修行仕れど少しも上らすと云ふ。師曰、たやすく成る事に非す、其やうに安く成る事ならば、我は羅漢にも菩薩にも成るへきが未た餓鬼畜生を離れす、然る間次第つよに修すへし。一旦頭の火を払ふ様なりとも、跡つゞかざれば用に立たす、急に成る事と思はゞ退屈すへしと也。
現代語訳
ある日、ある人が来て成仏について尋ねた。師は示して言われた。成仏というのは、本来の空になることである。元のように我もなく、人もなく、法もなく、仏もなく、一切からすっかり離れて、手を払って際を明けることである。悟りであれ何であれ、何かが残っているなら、それではない。婆子焼庵の古則などは良い証拠である。また言われた。暇のない人が折々来ることは無用である。私が言うほどのことは『万民徳用』や『草分』などに書いてある。あれ以外に言うことはない。これをよく見なさい。その者は、十分修行しておりますが少しも上達しません、と言った。師は言われた。たやすくできることではない。そのように簡単にできることなら、私は羅漢にも菩薩にもなっているはずだが、いまだに餓鬼畜生を離れていない。だから次第に強く修めなさい。一時は頭に燃え移った火を払うように懸命にしても、後が続かなければ役に立たない。急にできることと思えば、飽きて投げ出してしまうだろう、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日人来り、何を承りても覚ねぬに仍りて修行仕り得ずと云ふ。師聞て曰く、扨も能き事也。一物をも覚えぬを仏法と云ふ也。是れに仍りて覚えて置く事を嫌ひ捨て、只念仏を以て胸の中の塵ほこりを払捨て払捨てする事を勤めさする也。如是勤めて仏法世法共に忘れ果て、はらりつと手を打叩いた如くに成るを成仏と云ふ也。
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『驢鞍橋』卷下一日、示して曰く、今時の修行者、大略輪廻の業を免るべからす。夫れ成仏と云ふは、三界出離を旨として、名に離れ相に離れ、我に離れ、娑婆に離れ、一切にぐつと離ること也。総而此の娑婆にあらゆることの間に落るは、皆是れ輪廻の業と也。
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『驢鞍橋』卷上師又曰く、其方の振は仏法を持たれたり出しめされよ。彼者、少しも存せずと云ふ。師曰、いやいや一物有り、早々出しめされよと責め給ふ。時に彼者去る和尚より趙州洗鉢盂の話を授かり、脫体に入りかゝり候と云ふ。師曰く、三宝とて世人の宝と成る僧が、還つて左も無き事を授けて、人を損ふと是非も無き事也。夫れ言句に徹すると云ふ事も無きには非ず、縦ひ微したりとも、餓鬼畜生の心は休むへからす。我も私見性少し有れども何の用にも立たす、結句今時見性したりと云ふ人は、大形人悪く成る也。其方も只土に成て念仏修行せらるべし。彼者問、修行とはいかなる事なりや。師答て曰、我を尽す事也。又問、土にはなにと成り候や。師答て曰、其方が胸の中の知解妄想を悉く打捨て、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と道理を申しけし、我を申しけして、虚空一枚に成るを土に成て成仏する修行と云ふ也。
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『驢鞍橋』卷上一日或る俗来て曰く、承り及ふ故に是れ迄伺候仕る、一句示し給へ。師曰く、一人虚を伝ふれば、万人実と伝ふとて何者かおどけ者有りて、正三こそ名誉者なれ抔といへば、末々に聞き伝へ、扨は空をも翅り、光をも放つか抔と思ひ、正三見物に来り、変も無き老人なるを見て、皆興を醒さるゝ也。誠に我何の変もなき土禅門也。只死度くも無き間、何とぞして殺さるゝ事有りとも、何とも思はす、頸を指出して自由に死ぬ程に成りたさに修する也。されとも死は置いて餓鬼畜生を出でぬ也。是れを出度く思ふ心は、何とも思はず居る者には增さるへき歟。別に人に增りたる事無し。其方も聞かんと思はゝ一向のしろうとに成りめさるへし。彼者、秘し給ふと思ひ弥示し給へと云ふ。師曰く、我仏法の能き事を知らず、只我悪敷事を能く知りたる也。我友に成り、出入めされば、何時も我処に有る餓鬼畜生を懺悔して聞かせ申すべし。実に是の外によき事を知らず、ひげして云ふかと思ひめされんずな。無間に沈むほうぞ知らぬ也。
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『驢鞍橋』卷下一日人問ふ、四民に書を給ふ所の浮心を如何用ゐんや。師示して曰く、虎口塲に望む心也。又果眼に成り、じりじりと懸る時の心也。此の機なくして万事に使はるべからす。仏道修行と云ふは、始めより終り迄、只此の機一つを以て生死を離るゝこと也。生死さへ離れば成仏也。然る間、此の機一つを以て成仏すべき也。別に入ることなし。見解抔と云ふこともさして用に立たぬ物也。毒薬変して薬と成ると云ふが如く、薬変して毒と成り結句怨と成ること多かるべし。見解よりも何よりも、只勇猛の心を以て練付て行くかよき也。古歌に「悟とは悟らで悟る悟なり悟る悟は夢の悟ぞ」とあり。誠に悟る悟はあぶないことぞ。我も悟らぬ悟がすきなり。法然などの念仏往生も悟らぬ悟也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、今時の人仏法は悟らねば用に立たぬと思ふ也。其儀に非す。仏法と云ふは、只今の我心をよう用ひて、今用に立つる事なり。成程心を强う用ゆるを修行とす、心の强うなるほど次第に使はるる也。大に勤むれば大に徳有り、少し勤むれば少しの徳有り、譬へば万石取には及はねども、千石取らば百石取には勝るが如し。分々に徳を得る事也。扨亦悟入すれば、仏境界なりと思へり。そでも無き事也。縦ひ見解有るとも自由に使はるべからず。仏境界と云ふは各別の事也。只悟を求めずとも、修し行じて徳に至るべしと也。