驢鞍橋 / 卷上
一日去る者問ふ。同し位の人にして僧と俗とは何れか修行の爲めに是ならんや。師答て曰く、大すうを云はば出家は諸手打、在家は片手打也。在家は道を障ふる緣多し、出家は碍ふる緣少し。然れども今時の出家衆は、皆佛法嫌ひ也、俗の半分も道にすく人なし、其上機だらりとして不義心多し。扨侍は主を持つ機に張合ひあり、亦天然と死を守る心有り、結句今時は修行は俗かする也。乍去大眞實の人にしては出家の人德大也。
新字:一日去る者問ふ。同し位の人にして僧と俗とは何れか修行の為めに是ならんや。師答て曰く、大すうを云はば出家は諸手打、在家は片手打也。在家は道を障ふる縁多し、出家は碍ふる縁少し。然れども今時の出家衆は、皆仏法嫌ひ也、俗の半分も道にすく人なし、其上機だらりとして不義心多し。扨侍は主を持つ機に張合ひあり、亦天然と死を守る心有り、結句今時は修行は俗かする也。乍去大真実の人にしては出家の人徳大也。
書き下し
一日去る者問ふ。同し位の人にして僧と俗とは何れか修行の為めに是ならんや。師答て曰く、大すうを云はば出家は諸手打、在家は片手打也。在家は道を障ふる縁多し、出家は碍ふる縁少し。然れども今時の出家衆は、皆仏法嫌ひ也、俗の半分も道にすく人なし、其上機だらりとして不義心多し。扨侍は主を持つ機に張合ひあり、亦天然と死を守る心有り、結句今時は修行は俗かする也。乍去大真実の人にしては出家の人徳大也。
現代語訳
ある日、ある者が尋ねた。同じ程度の人で、僧と俗人とでは、どちらが修行のためによいでしょうか。師は答えて言われた。おおよそを言えば、出家は両手打ち、在家は片手打ちである。在家は道を妨げる縁が多く、出家は妨げる縁が少ない。けれども今の出家衆は、みな仏法嫌いである。俗人の半分も道を好む人がいない。そのうえ気迫がだらりとして、不義の心が多い。さて侍は、主君を持つ気迫に張り合いがあり、また自然と死を守る心がある。かえって今の時代は、修行は俗人がするのである。とはいえ、大いに真実のある人にとっては、出家の人の徳は大きい、と。
解説

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