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驢鞍橋 / 卷中

蓋此事從凡夫地頓同佛體。僧問ふ、等覺の菩薩さへ此の事に背く、凡夫何んとしてか相應するや。師云はく、頓に悟る時は、忽ち佛體に相應する也。境界は凡夫なれ共、見處は佛地を見る也、等覺の菩薩は、煩惱盡き境界收りても、未た心開けねは、身は佛體、心は凡夫也法華曰。盡思共度量。不能測佛智。何以有盡思度量之心。葢信不具耳。僧問ふ、心を悟らんと思ふも、度量の心と嫌はゝ如何せんや。師云はく、疑を起せと也、疑團は思慮を絕する也。

新字:蓋此事従凡夫地頓同仏体。僧問ふ、等覚の菩薩さへ此の事に背く、凡夫何んとしてか相応するや。師云はく、頓に悟る時は、忽ち仏体に相応する也。境界は凡夫なれ共、見処は仏地を見る也、等覚の菩薩は、煩悩尽き境界収りても、未た心開けねは、身は仏体、心は凡夫也法華曰。尽思共度量。不能測仏智。何以有尽思度量之心。葢信不具耳。僧問ふ、心を悟らんと思ふも、度量の心と嫌はゝ如何せんや。師云はく、疑を起せと也、疑団は思慮を絶する也。

書き下し

蓋し此の事は凡夫地より頓に仏体に同じ。僧問ふ、等覚の菩薩さへ此の事に背く、凡夫何んとしてか相応するや。師云はく、頓に悟る時は、忽ち仏体に相応する也。境界は凡夫なれ共、見処は仏地を見る也、等覚の菩薩は、煩悩尽き境界収りても、未た心開けねは、身は仏体、心は凡夫也。法華に曰く、思いを尽くして共に度量すとも、仏智を測ること能わず。何を以てか思いを尽くして度量する心有る。蓋し信具わらざるのみ。僧問ふ、心を悟らんと思ふも、度量の心と嫌はゝ如何せんや。師云はく、疑を起せと也、疑団は思慮を絶する也。

現代語訳

思うに、この事は凡夫の身のままで、たちまち仏の体と同じになるのである。僧が問うた。「等覚の菩薩でさえこの事に背くのに、凡夫がどうして相応できるのですか」。師は言われた。「たちまち悟る時は、すぐに仏の体に相応する。境遇は凡夫であっても、見るところは仏の境地を見ているのである。等覚の菩薩は、煩悩が尽き境遇が整っても、まだ心が開けていないので、身は仏の体でも心は凡夫なのだ」。『法華経』にいう。「思いを尽くして皆で推し量っても、仏の智慧は測ることができない」。どうして思いを尽くして推し量る心があるのか。思うに信が具わっていないだけである。僧が問うた。「心を悟ろうと思うのも推し量る心だと嫌うのなら、どうすればよいのですか」。師は言われた。「疑いを起こせということだ。疑団は思慮を断ち切るのである」。

解説

博山は、この一大事は凡夫の身のままで一挙に仏と同じになるものだと説き、段階を積み上げる菩薩の道と対比する。正三はこれを受けて、身が整っても心が開けなければ凡夫、身は凡夫でも見処が開ければ仏の境地を見ると、身と心を分けて説明した。続く『法華経』の引用は、思慮で仏の智慧を測ろうとする心そのものが信の欠如だとする。ではどうすればよいかと問う僧に、正三は疑いを起こせ、疑団は思慮を断ち切ると答えた。考え続けて行き詰まったときは、考える量を増やすより、問いそのものに身を投じるほうが道が開けることもある。

この章句が説くこと

頓悟疑団信思慮法華経凡夫

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