驢鞍橋 / 卷中
做工夫。要中正勤挺不近人情。師云はく、是れ自己を守るの位也。
書き下し
工夫を做すは、中正勤挺にして人情に近づかざらんことを要す。師云はく、是れ自己を守るの位也。
現代語訳
工夫をするには、偏らず正しく、たゆまず勤めて、人情に流されないようにしなければならない。師は言われた。「これは自己を守る段階である」。
解説
『博山禅警語』の短い一句に、正三が一言だけ評を加えた条である。人情に近づかないとは、周りの目や付き合いに引きずられて工夫が緩むのを防ぐことを言う。正三はこれを「自己を守る位」と位置づけ、修行のある段階で必要な構えとして認めている。裏を返せば、それは最終の境地ではなく、守りの段階にすぎないという含みもあろう。大事な仕事に打ち込む時期には、あえて付き合いを断って自分を守ることも必要だと教えている。
この章句が説くこと
工夫人情中正自己修行段階
関連する章句
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『驢鞍橋』卷中工夫を做すに、箇の死の字を把って額上に貼在し、血肉の身心を将て死し去るが如く一般にし、祇だ究明せんと要する底の這の一念子の現前する有るのみ。師云はく、始めより死ぬ事一つを云ふ也。各も定て不審に思はれんす、我も前証なき事かと思ひけるが、此の書は我法の証拠に渡れり、誠に此死においては、髄に徹して居る也、何としても死なれぬものぞと也。
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『驢鞍橋』卷中工夫を做すに、死して活くるを得ざることを怕れず、只だ活きて死するを得ざることを怕る。師云はく、死して後の成仏を求めすとも、只今活て居て自由に死ぬ事を仕習へと也。今時の人是れを知らす、死して後仏に成らんと計願ひて、今死を習ふ事せすと也。
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『驢鞍橋』卷中工夫を做すに、疑情発り得て起れば、法身の理と相応す。湛として揺がざる処に坐到すれば、浄裸々、赤洒洒として、把るべき没し。便ち身を放ち去って、転位就機することを識り得ず、這裡に向って強いて主宰を立て、法身の辺に滞在す。通身是れ病なり。禅に非ず□□。師衆に向て云はく、禅の意作麼生。
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『驢鞍橋』卷上一日意の暗き行者を諫めて曰く、其方は先づ言句を錬鍛べて意に徹すへし。彼者云、某一処を守る機有り、熟せば万事に相応すべき間、言句の意を明めて詮なしと存ず。但し無理に强く修すると、意を受くると差別有りや。師曰、中々意暗くしては修行はかどるべからす、先づ其方は専ら意を受習はるべしと也。
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『驢鞍橋』卷中工夫を做すは、貴ぶらくは疑情を起すに在り。何をか疑情と謂う。生じて何れより来るかを知らざるが如きは、来処を疑わざることを得ず。死して何れに去るかを知らざれば、去処を疑わざることを得ず。生死の関、発して破れずんば、則ち疑情頓に発して、眉睫の上に結在す。放てども亦た下らず、趁えども亦た去らず、師云はく、放不下、趁不去、胸中にじつとさしはつて居る機一つを以て修する事なり。此の書は読む物にあらす、直に如是用ゐよと云ふ事也。此の二段にて済む、多く入るへからすと也。忽然として疑団を撲破せば、生死の二字は是れ甚麼の閑家具ぞ。噁。一僧問ふ、噁とは何ぞや。師云はく、□撲破した後は、云ふ事は有つてこそと也。
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『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、修行と云ふ物、中中上り難き物也。我今十二時中坐禅ならさる事なし。喩へは大勢に交り、上下へかえし、相撲を取り、躍をゝとり、何程はね狂ひたりとも、坐禅の機少しもたじろくへからす。また好く若き時より心つきて自己を守りしが、其時分よりはや念には勝つてばかされざる也。夫れより次第よく修しつめ何たる事にもたじろかぬほどに仕付けたれども、まだ夫れでも生死の為めには不成、中々大儀な物也。
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