驢鞍橋 / 卷中
做工夫。疑情發得起。與法身理相應。坐到湛不搖處。淨裸々。赤洒洒。沒可把。便放身去。不識得轉位就機。向這裡强立主宰。滯在法身邊。通身是病。非禪□□師衆に向て云はく、禪の意作麼生。
新字:做工夫。疑情発得起。与法身理相応。坐到湛不揺処。浄裸々。赤洒洒。没可把。便放身去。不識得転位就機。向這裡強立主宰。滞在法身辺。通身是病。非禅□□師衆に向て云はく、禅の意作麼生。
書き下し
工夫を做すに、疑情発り得て起れば、法身の理と相応す。湛として揺がざる処に坐到すれば、浄裸々、赤洒洒として、把るべき没し。便ち身を放ち去って、転位就機することを識り得ず、這裡に向って強いて主宰を立て、法身の辺に滞在す。通身是れ病なり。禅に非ず□□。師衆に向て云はく、禅の意作麼生。
現代語訳
工夫をして、疑いの心が起こると、法身の理と相応する。静かにたたえて揺るがないところまで坐り至ると、まったく裸で、赤裸々で、つかむべきものが何もない。そこで身を投げ出してしまい、位を転じて働きに就くことを知らず、そこで無理に主宰を立てて、法身の辺りに滞ってしまう。全身これ病である。禅ではない(以下二字判読できない)。師は皆に向かって言われた。「では、禅の意とはどういうものか」。
解説
博山は、疑情が起こって静かな境地に達した修行者が、そこに安住してしまう危うさを説く。何もつかむものがない清浄な境地は一つの到達点に見えるが、そこから働きへと転じなければ、法身の辺りに滞る病にすぎないというのである。正三は評を加えず、「禅の意とはどういうものか」と皆に問い返した。答えを与えず問いを投げるのは、聞き手自身に考えさせるための正三の手法である。一つの成功体験や心地よい境地にとどまらず、次の働きへ転じることの大切さを考えさせる。
この章句が説くこと
疑情法身安住転位禅博山
関連する章句
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『驢鞍橋』卷中工夫を做すは、貴ぶらくは疑情を起すに在り。何をか疑情と謂う。生じて何れより来るかを知らざるが如きは、来処を疑わざることを得ず。死して何れに去るかを知らざれば、去処を疑わざることを得ず。生死の関、発して破れずんば、則ち疑情頓に発して、眉睫の上に結在す。放てども亦た下らず、趁えども亦た去らず、師云はく、放不下、趁不去、胸中にじつとさしはつて居る機一つを以て修する事なり。此の書は読む物にあらす、直に如是用ゐよと云ふ事也。此の二段にて済む、多く入るへからすと也。忽然として疑団を撲破せば、生死の二字は是れ甚麼の閑家具ぞ。噁。一僧問ふ、噁とは何ぞや。師云はく、□撲破した後は、云ふ事は有つてこそと也。
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『驢鞍橋』卷中工夫做し得て上れば、千斤の担子を排するが如く、放てども亦た下らず。要緊の失物を覓むるが如くに相似たり。若し覓め着かずんば、誓って休心せず。其の中、但だ執を生じ、着を生じ、計を生ずべからず。執は病と成り、着は魔と成り、計は外と成る。一僧問ふ、失物を覓る如くするは、大なる着也。魔と成るに非すや。師云はく、或は浄土を立て弥陀を作りて願ふ抔は、あてどある間、魔の取り付処も有るへし。疑団は虚空無体也、魔なんぞ便りを得んや。
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『驢鞍橋』卷中工夫を做すに、頭を擡ぐれども天を見ず、頭を低るれども地を見ず。山を看れども是れ山ならず、水を見れども是れ水ならず。行けども行くを知らず、坐せども坐するを知らず。千人万人の中にも一人有るを見ず。師云はく、深思ひ入たる人如是。万事目には見ても、心に見す、疑団まてもなし、急度たるまぬ様に用ゆれは、早や此位は知る物也。通身内外只だ是れ一箇の疑団。謂っつべし、世界を攪渾して疑団破れずんば誓って休心せずと。此れを工夫の緊要と為す。師云はく、此の疑団心さへあれは、悪趣に堕しても種子をおとさす、世世に於て終に道を成する也。此の心一度起らすして、何を以て自性に契はんや。我は此の心を勇猛の機と名く。此機を得れは、何たる事に逢ふても、種を失はす、万事に自由也。若し修道の人此の心なくんば、生死到来の時かならす種を落すべしと也。
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『驢鞍橋』卷中外道は身心をして断滅して化して頑石と為らしむ。亦た静境より入る。良に歳久しく月深きを以て、之を枯らし又た枯らし、之を寂し又た寂して、無知無覚に堕す、木石と何ぞ異ならん。吾人或いは静境に処するも、祇だ衣線下一段の大事を発明せんと要す。静境に在ることを知らずして始めて得べし。大事の中に於て其の静相を求むるに、了に得べからず。斯れを得たりと為す。因に衆に語て云はく、我も始めより静境に依て入らしむる事をせす、日本橋の市中にて用ひ習へ、又閙の声の中に坐禅せよ抔と教ゆる也。
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『驢鞍橋』卷中工夫を做すに、疑情発り起らざれば、便ち有為の功行を做さんと欲す。或いは解脱を做し、或いは苦行を行ず。冬も炉せず、夏も扇せず。人来って衣を乞えば、便ち全身脱ぎ去って、甘心して凍死す、之を解脱と謂う。人来って食を乞えば、便ち自己食わずして、甘心して餓死す、之を解脱と謂う。更に種々有り、具さに説くべからず。総じて之を論ずれば、皆是れ勝心の使う所、無知を誑惑す。彼の無知の者は、是れ活仏なりと謂い、是れ菩薩なりと謂い、其の形命を尽くして承事供養す。殊に知らず、仏戒の中に之を悪律儀業と謂うことを。是れ持戒なりと雖も、歩歩に罪を結ぶ。師衆に問ふ、持戒の善業、何としてか罪結となるや。僧云ふ、有相執着の一念也。師云はく、然らは何と用ひたるか是ならんや。僧云はく、莫妄想。師之を肯う。
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『驢鞍橋』卷中工夫を做すに、箇の死の字を把って額上に貼在し、血肉の身心を将て死し去るが如く一般にし、祇だ究明せんと要する底の這の一念子の現前する有るのみ。師云はく、始めより死ぬ事一つを云ふ也。各も定て不審に思はれんす、我も前証なき事かと思ひけるが、此の書は我法の証拠に渡れり、誠に此死においては、髄に徹して居る也、何としても死なれぬものぞと也。
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