驢鞍橋 / 卷中
做工夫。擡頭不見天。低頭不見地。看山不是山。見水不是水。行不知行。坐不知坐。千人萬人之中不見有一人。師云はく、深思ひ入たる人如是。萬事目には見ても、心に見す、疑團まてもなし、急度たるまぬ樣に用ゆれは、早や此位は知る物也。通身內外只是一箇疑團。可謂攪渾世界疑團不破誓不休心。此爲工夫緊要。師云はく、此の疑團心さへあれは、惡趣に墮しても種子をおとさす、世世に於て終に道を成する也。此の心一度起らすして、何を以て自性に契はんや。我は此の心を勇猛の機と名く。此機を得れは、何たる事に逢ふても、種を失はす、萬事に自由也。若し修道の人此の心なくんば、生死到來の時かならす種を落すべしと也。
新字:做工夫。擡頭不見天。低頭不見地。看山不是山。見水不是水。行不知行。坐不知坐。千人万人之中不見有一人。師云はく、深思ひ入たる人如是。万事目には見ても、心に見す、疑団まてもなし、急度たるまぬ様に用ゆれは、早や此位は知る物也。通身内外只是一箇疑団。可謂攪渾世界疑団不破誓不休心。此為工夫緊要。師云はく、此の疑団心さへあれは、悪趣に堕しても種子をおとさす、世世に於て終に道を成する也。此の心一度起らすして、何を以て自性に契はんや。我は此の心を勇猛の機と名く。此機を得れは、何たる事に逢ふても、種を失はす、万事に自由也。若し修道の人此の心なくんば、生死到来の時かならす種を落すべしと也。
書き下し
工夫を做すに、頭を擡ぐれども天を見ず、頭を低るれども地を見ず。山を看れども是れ山ならず、水を見れども是れ水ならず。行けども行くを知らず、坐せども坐するを知らず。千人万人の中にも一人有るを見ず。師云はく、深思ひ入たる人如是。万事目には見ても、心に見す、疑団まてもなし、急度たるまぬ様に用ゆれは、早や此位は知る物也。通身内外只だ是れ一箇の疑団。謂っつべし、世界を攪渾して疑団破れずんば誓って休心せずと。此れを工夫の緊要と為す。師云はく、此の疑団心さへあれは、悪趣に堕しても種子をおとさす、世世に於て終に道を成する也。此の心一度起らすして、何を以て自性に契はんや。我は此の心を勇猛の機と名く。此機を得れは、何たる事に逢ふても、種を失はす、万事に自由也。若し修道の人此の心なくんば、生死到来の時かならす種を落すべしと也。
現代語訳
工夫をするには、頭を上げても天が見えず、頭を下げても地が見えず、山を見ても山ではなく、水を見ても水ではない。歩いていても歩いていることを知らず、坐っていても坐っていることを知らない。千人万人の中にいても一人の人も目に入らない。師は言われた。「深く思い込んだ人はこのようになる。何事も目には見えていても心には見ていない。疑団というほどのものでなくとも、きっちりと緩まないように用いれば、早くもこの境地は分かるものである」。全身の内も外もただ一つの疑いの塊となる。世界をかき回しても疑団が破れなければ決して休まないと誓う心、と言うべきである。これが工夫の要である。師は言われた。「この疑団の心さえあれば、たとえ悪い世界に堕ちても種を落とさず、生まれ変わりを重ねるうちについには道を成就する。この心が一度も起こらないで、何によって自性にかなうことができようか。私はこの心を勇猛の機と名づけている。この機を得れば、どんなことに出会っても種を失わず、万事に自由である。もし道を修める人にこの心がなければ、生死の時が来たとき必ず種を落とすだろう」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷中工夫を做すは、貴ぶらくは疑情を起すに在り。何をか疑情と謂う。生じて何れより来るかを知らざるが如きは、来処を疑わざることを得ず。死して何れに去るかを知らざれば、去処を疑わざることを得ず。生死の関、発して破れずんば、則ち疑情頓に発して、眉睫の上に結在す。放てども亦た下らず、趁えども亦た去らず、師云はく、放不下、趁不去、胸中にじつとさしはつて居る機一つを以て修する事なり。此の書は読む物にあらす、直に如是用ゐよと云ふ事也。此の二段にて済む、多く入るへからすと也。忽然として疑団を撲破せば、生死の二字は是れ甚麼の閑家具ぞ。噁。一僧問ふ、噁とは何ぞや。師云はく、□撲破した後は、云ふ事は有つてこそと也。
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『驢鞍橋』卷中工夫做し得て上れば、千斤の担子を排するが如く、放てども亦た下らず。要緊の失物を覓むるが如くに相似たり。若し覓め着かずんば、誓って休心せず。其の中、但だ執を生じ、着を生じ、計を生ずべからず。執は病と成り、着は魔と成り、計は外と成る。一僧問ふ、失物を覓る如くするは、大なる着也。魔と成るに非すや。師云はく、或は浄土を立て弥陀を作りて願ふ抔は、あてどある間、魔の取り付処も有るへし。疑団は虚空無体也、魔なんぞ便りを得んや。
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『驢鞍橋』卷中工夫を做すに、疑情発り得て起れば、法身の理と相応す。湛として揺がざる処に坐到すれば、浄裸々、赤洒洒として、把るべき没し。便ち身を放ち去って、転位就機することを識り得ず、這裡に向って強いて主宰を立て、法身の辺に滞在す。通身是れ病なり。禅に非ず□□。師衆に向て云はく、禅の意作麼生。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、修行と云ふは勇猛の機一つ也。此心無くんば何たる行業も何たる善心も、皆徒事也。如来坐禅と二王坐禅と、あまり隔てあるべからず。面に現はしたると内に用ゐたるの替りなるべし。勇猛の機なくして、なにとして凡夫心にて死する時少しも使はれんや。亦なにを以て一切に勝つへきや。我は此機を頓て修し出したる間、人毎に頓て移らんずと思へとも、一人でも受けたる者なし。然れば是れ迄も修し付け難く、移し難き物と見えたり。時に去る者問、如何様にして此機を修し出すべきや。師示日、眼をすゑて死習ふ外なし。此糞袋をかたきにしてひた責めに責むべし。我が書く処の捨身の位、自己を守るの位をよく見て修せば、必す此機自然に起るへしと也。
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『驢鞍橋』卷中博山禅警語に曰く、工夫を做すに、最初要ず箇の破生死の心を発すべし。堅硬に看破せよ、世界身心悉く是れ仮縁にして実の主宰無しと。若し本具底の大理を発明せずんば、則ち生死の心破れず。生死の心既に破れずんば、無常の殺鬼念念に停まらず、却って如何にか排遣せん。此の一念を将て箇の敲門の瓦子と作せ。烈火焔中に坐在して出でんことを求むるが如くに相似たり。乱りに一歩を行くことを得ず、一歩を停止することを得ず、別に一念を生ずることを得ず、別人の救いを望むことを得ず。恁麼の時に当たって、只だ須らく猛火を顧みず、身命を顧みず、人の救いを望まず、別念を生ぜず、暫くも止まることを肯わず、前に往いて直に奔るべし。奔り得て出づれば是れ好手なり。師云はく、誠に修行と云ふは、この破生死の心を起す一つ也。烈火焔中に坐在して出る事を求るが如くの心を以て切に用るはかり也。一僧問ふ、何れの一念か扣門瓦子なりや。師云はく、如何が排遣せんと通身より思ふが、自性に契ふ肝要扣門瓦子也。
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『驢鞍橋』卷中工夫を做すに、箇の死の字を把って額上に貼在し、血肉の身心を将て死し去るが如く一般にし、祇だ究明せんと要する底の這の一念子の現前する有るのみ。師云はく、始めより死ぬ事一つを云ふ也。各も定て不審に思はれんす、我も前証なき事かと思ひけるが、此の書は我法の証拠に渡れり、誠に此死においては、髄に徹して居る也、何としても死なれぬものぞと也。
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