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驢鞍橋 / 卷中

長老曰く、爰は未悟の働き也。雪竇の頌にも、龍牙山の龍に眼なしとあり。師曰く、此の頌抑したるに非す、眼ないがよい、眼ないが活龍なり。龍牙祖師意無しと云ふ意をよく受て頌せられたり。さりとては雪竇作者也。長老曰く、其意如何。師云はく、其方達の樣な長老か長老をかゝへ廻るもの也。長老曰く、其意は面白く候へ共、圓悟禪師碧岩集に此の頌は無眼子とせられたりと慥に評す。其上後に洞山に至て心路絕し伎倆盡くと有り。師云はく、無理には申されぬが、此の評は錯りなるべし。何としても圓悟の意、雪竇の頌意には及はすと外思はれずと也。衆不肯。

新字:長老曰く、爰は未悟の働き也。雪竇の頌にも、竜牙山の竜に眼なしとあり。師曰く、此の頌抑したるに非す、眼ないがよい、眼ないが活竜なり。竜牙祖師意無しと云ふ意をよく受て頌せられたり。さりとては雪竇作者也。長老曰く、其意如何。師云はく、其方達の様な長老か長老をかゝへ廻るもの也。長老曰く、其意は面白く候へ共、円悟禅師碧岩集に此の頌は無眼子とせられたりと慥に評す。其上後に洞山に至て心路絶し伎倆尽くと有り。師云はく、無理には申されぬが、此の評は錯りなるべし。何としても円悟の意、雪竇の頌意には及はすと外思はれずと也。衆不肯。

書き下し

長老曰く、爰は未悟の働き也。雪竇の頌にも、竜牙山の竜に眼なしとあり。師曰く、此の頌抑したるに非す、眼ないがよい、眼ないが活竜なり。竜牙祖師意無しと云ふ意をよく受て頌せられたり。さりとては雪竇作者也。長老曰く、其意如何。師云はく、其方達の様な長老か長老をかゝへ廻るもの也。長老曰く、其意は面白く候へ共、円悟禅師碧岩集に此の頌は無眼子とせられたりと慥に評す。其上後に洞山に至て心路絶し伎倆尽くと有り。師云はく、無理には申されぬが、此の評は錯りなるべし。何としても円悟の意、雪竇の頌意には及はすと外思はれずと也。衆不肯。

現代語訳

長老が言った。「ここはまだ悟っていない者の働きです。雪竇の頌にも『龍牙山の龍に眼なし』とあります」。師は言われた。「この頌は龍牙をおとしめたものではない。眼がないのがよいのだ。眼がないのが生きた龍なのだ。龍牙の『祖師の意図などない』という意をよく受けて頌を作られた。さすがに雪竇は名手である」。長老が言った。「その意味はどういうことですか」。師は言われた。「(眼があるというのは)あなた方のような長老が、長老という看板を抱えて歩き回っているようなものだ」。長老が言った。「そのお考えは面白うございますが、円悟禅師は『碧巌録』で、この頌は龍牙を眼のない者としたのだと確かに評しています。そのうえ、後に洞山のもとに至って心の働きが絶え、手立てが尽きた、とあります」。師は言われた。「無理には申せないが、この評は誤りであろう。どう考えても、円悟の意は雪竇の頌の意には及ばないとしか思われない」。聴衆は納得しなかった。

解説

雪竇重顕はこの問答に「龍牙山裏龍無眼」と頌をつけ、円悟克勤は『碧巌録』でそれを龍牙を批判した句として評した。長老はその権威ある評唱を根拠に正三に反論する。正三は、眼がないことこそ生きた龍の証しだと読み替え、円悟の評のほうが雪竇に及ばないと言い切った。居並ぶ僧たちは誰も納得しなかったと、記録者は正直に書き残している。定評ある解釈に逆らうには孤立を覚悟せねばならないが、自分の見たものを曲げない姿勢がここにある。

この章句が説くこと

雪竇円悟碧巌録無眼権威見解

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