驢鞍橋 / 卷中
後に長水長老、麻布の賢崇寺にて右の事を語て曰く、正三も廣く物を見たまはさる故に、加樣の證據正き處にもじやうをはりたまふ也。時に一人の客僧有り曰く、さても夫は見處强き人哉。此の則の義は、龍牙悟上の勘辨に窮る也。後に洞山に至て心路絕し伎倆盡きたると云ふは、諸方を勘辨せしかとも、別に易る事もないに仍て、洞山迄にして其勘辨を休したるを云へり。古人も爰を見錯りたると云ふ事を虚堂和尙具に記し置きたまふ。此比越前敦賀にて、去る和尙彼錄を講じたまふを承ると云つて錄を出す、長老一見して大に驚異す。
新字:後に長水長老、麻布の賢崇寺にて右の事を語て曰く、正三も広く物を見たまはさる故に、加様の証拠正き処にもじやうをはりたまふ也。時に一人の客僧有り曰く、さても夫は見処強き人哉。此の則の義は、竜牙悟上の勘弁に窮る也。後に洞山に至て心路絶し伎倆尽きたると云ふは、諸方を勘弁せしかとも、別に易る事もないに仍て、洞山迄にして其勘弁を休したるを云へり。古人も爰を見錯りたると云ふ事を虚堂和尚具に記し置きたまふ。此比越前敦賀にて、去る和尚彼録を講じたまふを承ると云つて録を出す、長老一見して大に驚異す。
書き下し
後に長水長老、麻布の賢崇寺にて右の事を語て曰く、正三も広く物を見たまはさる故に、加様の証拠正き処にもじやうをはりたまふ也。時に一人の客僧有り曰く、さても夫は見処強き人哉。此の則の義は、竜牙悟上の勘弁に窮る也。後に洞山に至て心路絶し伎倆尽きたると云ふは、諸方を勘弁せしかとも、別に易る事もないに仍て、洞山迄にして其勘弁を休したるを云へり。古人も爰を見錯りたると云ふ事を虚堂和尚具に記し置きたまふ。此比越前敦賀にて、去る和尚彼録を講じたまふを承ると云つて録を出す、長老一見して大に驚異す。
現代語訳
後に長水長老が、麻布の賢崇寺でこの一件を語って言った。「正三殿も広く書物をご覧にならないので、このように証拠の正しいところにも意地を張られるのだ」。その時、一人の客僧がいて言った。「さてもその方は見識の強い人ですな。この則の意味は、龍牙が悟った上で相手を試したということに尽きます。後に洞山に至って心の働きが絶え手立てが尽きたというのは、諸方の師家を試してみたけれども、別に変わったこともなかったので、洞山のところまでで試すのをやめたことを言っているのです。昔の人もここを見誤ったということを、虚堂和尚が詳しく書き残しておられます。この頃、越前の敦賀で、ある和尚がその語録を講じられるのを聞きました」と言って語録を取り出した。長水長老はそれを一目見て大いに驚いた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷中〇虚堂和尚此の則を挙して曰く、後の学者、己眼明らかならず。他の洞山に承嗣するを見て、便ち道う、当時翠微・臨済に見えし時未だ透らずと。一犬虚に吠ゆれば、千猱実に啀む。雲門は睦州に見えて発明し、却って雪峰に嗣ぐ。惟だ雪竇のみ有って他の骨髄を見徹す。頌古の裏面に劈頭便ち道う、竜牙山裡竜に眼無しと。此の語辛辣にして近傍し難し。蓋し他の用処多く此に類す云云。又曰く、覚範却って道う、雪竇死水瞎竜を以て之を罪すと。分明に是れ活祖師意なるを、却って死法の会を作し了る。分明に道う、竜牙山裡竜に眼無しと云云。虚堂録巻四双林夏前告香普説にあり。
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『驢鞍橋』卷中長老曰く、爰は未悟の働き也。雪竇の頌にも、竜牙山の竜に眼なしとあり。師曰く、此の頌抑したるに非す、眼ないがよい、眼ないが活竜なり。竜牙祖師意無しと云ふ意をよく受て頌せられたり。さりとては雪竇作者也。長老曰く、其意如何。師云はく、其方達の様な長老か長老をかゝへ廻るもの也。長老曰く、其意は面白く候へ共、円悟禅師碧岩集に此の頌は無眼子とせられたりと慥に評す。其上後に洞山に至て心路絶し伎倆尽くと有り。師云はく、無理には申されぬが、此の評は錯りなるべし。何としても円悟の意、雪竇の頌意には及はすと外思はれずと也。衆不肯。
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『驢鞍橋』卷中○碧岩集の評に曰く、他の箇の問端を致す、妨げず他の曲椽木床上の老漢を見んと要するを。亦た自己一段の大事を明らめんと要す。謂っつべし、言虚しく設けず、機乱りに発せずと。工夫を做す処の上に出在す。見ずや、五洩石頭に参ず、先ず自ら約して曰く、若し一言相契わば即ち住せん、然らずんば即ち去らんと云云。雪竇頌して曰く、竜牙山裏竜に眼無し、死水何ぞ曾て古風を振るわん。禅板蒲団用うること能わず、只だ応に分付して盧公に与うべし。評に曰く、雪竇款に拠って案を結す。他恁麼に頌すと雖も、且く道え、意什麼の処にか在る。甚れの処か是れ無眼、甚れの処か是れ死水裏。這裡に到って須らく是れ変通有って始めて得べし。所以に道う、澄潭は蒼竜の蟠るを許さず、死水何ぞ曾て獰竜有らん。道うことを見ずや、死水に竜を蔵さずと。若し是れ活底の竜ならば、須らく洪波浩渺、白浪滔天の処に向って去るべし。此れは竜牙の死水中に走入し去って人に打たるるを言う云云。
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『驢鞍橋』卷下一日、去る和尚の処に至り給ふ。彼の和尚折節近里の長老衆七八人を集て正宗賛を講釈し給ふ。和尚対話の次に曰く、正三此の長老衆の為めに後生物語し給へ。師曰く、なに禅門が御長老達に後世相談申さんや。和尚曰く、いやうばかかに語るやうに語り給へ、師曰く、さらばの言に付て申すべし。何れもは姥かかに非すと思召すか。耳より取り籠んだることを取りのけ、跡を算用して御覧せよ、惜いも貪いも、憎いも愛いも、うばかゝに替るべからす。只物知りたるうばかと思召すと有りければ、長老大に非を知られたり。
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『驢鞍橋』卷中同録。竜牙問う、如何なるか是れ祖師西来意。臨済曰く、我が与に禅版を過し来れ。牙便ち禅版を過して済に与う。済接得して便ち打つ。牙云く、打つことは即ち打つに任す、要且つ祖師意無し。牙後に翠微に到って問う、如何なるか是れ祖師西来意。微云く、我が与に蒲団を過し来れ。牙便ち蒲団を過して翠微に与う。微接得して便ち打つ。牙云く、打つことは即ち打つに任す、要且つ祖師意無し。牙住院の後、僧有り入室請益して云く、和尚行脚の時、二尊宿に参ず、因縁還た他を肯うや也た無や。牙云く、肯うことは即ち深く肯う、要は祖師意無し。一僧問ふ、竜牙昔日翠微、臨済の二尊宿に参して問話すれ共、因縁不契といふ人あり、是也や。師云はく、如何にしても、此の問答未悟の働にあらす、慥に竜牙悟上の勘弁也。
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『驢鞍橋』卷上一日語て曰く、我此前洛陽に有りし時、紫野より僧一人来り、古則抔問ひけるに、我常の如く相接す。後に聞けは我を賺しに来ると云ふ。我本より後に廻る事下手也。此故に人にだまさるゝ事多し。乍去今は功者に成りて、左様の者に相接する事上手に成りたり。若き衆に教へて置くへし、若し左様の者来り法を問はは、如何にも謙つて左様の事は存せぬ也、能き事有らば習ひ申さんと云つて、打上げて置くべしと也。
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