驢鞍橋 / 卷中
今時此の見によつて悟たるなどゝ心得、人をそこななふ類多き也。さて我云ふは、意の事に非す、分別にて分る處也。兩彩一賽に句面を着けは、時のころびあひ也と云ふへし。其は兩彩共に一つやうに目はもつたれ共、時のころびあひにて別に見やる也。何と能い喩てではをりないか。先にいふ如く不落不昧は、兩百丈の事我知らす、無門の頌意もしらす。只譬喻は如是と云ふへき也。總して乘らぬ事をさまざま云はんとする程に、云ふ程當らず、縱ひ云ひ當ても、そではなし。譬は盲目のろこの赤紙といはれて、あらゆる色紙を出して問ひ盡して當るか如しと也。
新字:今時此の見によつて悟たるなどゝ心得、人をそこななふ類多き也。さて我云ふは、意の事に非す、分別にて分る処也。両彩一賽に句面を着けは、時のころびあひ也と云ふへし。其は両彩共に一つやうに目はもつたれ共、時のころびあひにて別に見やる也。何と能い喩てではをりないか。先にいふ如く不落不昧は、両百丈の事我知らす、無門の頌意もしらす。只譬喩は如是と云ふへき也。総して乗らぬ事をさまざま云はんとする程に、云ふ程当らず、縦ひ云ひ当ても、そではなし。譬は盲目のろこの赤紙といはれて、あらゆる色紙を出して問ひ尽して当るか如しと也。
書き下し
今時此の見によつて悟たるなどゝ心得、人をそこななふ類多き也。さて我云ふは、意の事に非す、分別にて分る処也。両彩一賽に句面を着けは、時のころびあひ也と云ふへし。其は両彩共に一つやうに目はもつたれ共、時のころびあひにて別に見やる也。何と能い喩てではをりないか。先にいふ如く不落不昧は、両百丈の事我知らす、無門の頌意もしらす。只譬喩は如是と云ふへき也。総して乗らぬ事をさまざま云はんとする程に、云ふ程当らず、縦ひ云ひ当ても、そではなし。譬は盲目のろこの赤紙といはれて、あらゆる色紙を出して問ひ尽して当るか如しと也。
現代語訳
「今の世には、このような見方によって悟ったなどと心得て、人を損なう類が多い。さて私が言うのは、これは意のことではなく、分別で分かる所だということである。『両彩一賽』に句の表の意味をつけるなら、『その時の転がり具合だ』と言うべきである。それは、二つの目がどちらも一つの賽に同じように付いているけれども、その時の転がり具合で別々に見えるということだ。なんとうまいたとえではないか。先に言ったように、不落と不昧について言えば、二人の百丈のことは私は知らないし、無門の頌の真意も知らない。ただたとえとしてはこのようなものだと言うべきである。総じて、言葉に乗らないことをあれこれ言おうとするほど、言えば言うほど当たらない。たとえ言い当てても、それではない。たとえば盲人が赤い紙だと言われて、あらゆる色紙を出して尋ね尽くし、やっと当てるようなものだ」。
解説
この章句が説くこと
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『法句経』第二十六 婆羅門の部 四〇七〜四〇九 針の先から落ちる芥子四〇七 若し人あり貪と瞋と慢と覆を離るゝこと芥子が針端より(落つるが如くなるときは)、彼を我は婆羅門と謂ふ。 四〇八 麤ならざる教訓する実語を発し、其の語に由りて誰をも怒らさざる人を我は婆羅門と謂ふ。 四〇九 人若し此の世に於て或は短、或は長、麤細、浄不浄(を問はず)、与へられざる物を取らざれば、彼を我は婆羅門と謂ふ。
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『酔古堂剣掃』集綺・肝膽の人に向ふ有るのみ世路既に此くの如し、但だ肝膽の人に向ふ有るのみ。 清議奈何すべき、曾て口舌の業を造る無し。
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