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法句経 / 第二十六 婆羅門の部 四〇七〜四〇九 針の先から落ちる芥子

四〇七 若し人あり貪と瞋と慢と覆を離るゝこと芥子が針端より(落つるが如くなるときは)、彼を我は婆羅門と謂ふ。 四〇八 麤ならざる教訓する實語を發し、其の語に由りて誰をも怒らさざる人を我は婆羅門と謂ふ。 四〇九 人若し此の世に於て或は短、或は長、麤細、淨不淨(を問はず)、與へられざる物を取らざれば、彼を我は婆羅門と謂ふ。

新字:四〇七 若し人あり貪と瞋と慢と覆を離るゝこと芥子が針端より(落つるが如くなるときは)、彼を我は婆羅門と謂ふ。 四〇八 麤ならざる教訓する実語を発し、其の語に由りて誰をも怒らさざる人を我は婆羅門と謂ふ。 四〇九 人若し此の世に於て或は短、或は長、麤細、浄不浄(を問はず)、与へられざる物を取らざれば、彼を我は婆羅門と謂ふ。

書き下し

四〇七 若し人あり貪と瞋と慢と覆を離るゝこと芥子が針端より(落つるが如くなるときは)、彼を我は婆羅門と謂ふ。 四〇八 麤ならざる教訓する実語を発し、其の語に由りて誰をも怒らさざる人を我は婆羅門と謂ふ。 四〇九 人若し此の世に於て或は短、或は長、麤細、浄不浄(を問はず)、与へられざる物を取らざれば、彼を我は婆羅門と謂ふ。

現代語訳

もし人が、貪りと瞋りと慢心と覆(自分の不善や他人の善を覆い隠すこと)とを離れることが、芥子粒が針の先から落ちるようであるならば、その人を私は婆羅門と呼ぶ。粗暴でなく、教えとなる真実の言葉を語り、その言葉によって誰をも怒らせない人を、私は婆羅門と呼ぶ。もし人がこの世において、短いものでも長いものでも、粗いものでも細かいものでも、浄いものでも不浄なものでも、与えられていない物を取らないならば、その人を私は婆羅門と呼ぶ。

解説

四〇七偈は、四〇一偈の芥子と針の比喩をもう一度使う。こんどは煩悩が芥子の側に回り、貪・瞋・慢・覆がこぼれ落ちるように離れていく。覆は注によれば、他人の善や自分の不善を覆い隠すことで、慢と並べて挙げられているのが興味深い。自分を大きく見せることと、都合の悪いものを隠すことは根が近い。四〇八偈は言葉の偈で、粗くなく、教えになり、真実であり、しかも誰も怒らせない。真実を言えば人は怒る、という思い込みに対して、真実と穏やかさは両立しうると示している。四〇九偈は盗みの戒めを、長短・粗細・浄不浄と大小を問わず徹底させる。小さなものだから構わない、という例外を置かない。耳の痛いことを相手を怒らせずに伝える技術は、人を率いる者が最も問われるものの一つである。

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