驢鞍橋 / 卷中
師因に云ふ、此の兩彩一賽に注をなし、方語まで着てあれ共聞えす、各云つて看よ。時に長老あり云ふ、本迷悟なき處に至て見れは、墮脫ともに一枚の意也。時に不三云ふ、是れ意に非す語也。長老云ふ、語に非す意也。不三云ふ、語也。師云はく、是れ語也。殊に本迷悟なき處に至て見れは抔と云ふやうな惡い云ひ樣あつてこそ、其方は至た人か、さて其方の見の如きは、未た天地の沙汰なき處より、二義分ち、世界となり万物具る。然るに其未分の處に至て見れは、皆たは事と云ふ心か。長老云ふ、是。師云はく、是れ意にあらす分別也。此の前、玄俊坊此頃法意を得ると云はれたる事あり。我其意を問へば、坊云ふ、なしなしのなしの木になしの花さきさつさつとちる。我誠に佛法の分別あかり申したよと云へば、坊云ふ、いや分別に非す意也。我天地未分の處より萬物起り又空に歸るといふ意かと云てせりけれは、坊終に非を知られたり。
新字:師因に云ふ、此の両彩一賽に注をなし、方語まで着てあれ共聞えす、各云つて看よ。時に長老あり云ふ、本迷悟なき処に至て見れは、堕脱ともに一枚の意也。時に不三云ふ、是れ意に非す語也。長老云ふ、語に非す意也。不三云ふ、語也。師云はく、是れ語也。殊に本迷悟なき処に至て見れは抔と云ふやうな悪い云ひ様あつてこそ、其方は至た人か、さて其方の見の如きは、未た天地の沙汰なき処より、二義分ち、世界となり万物具る。然るに其未分の処に至て見れは、皆たは事と云ふ心か。長老云ふ、是。師云はく、是れ意にあらす分別也。此の前、玄俊坊此頃法意を得ると云はれたる事あり。我其意を問へば、坊云ふ、なしなしのなしの木になしの花さきさつさつとちる。我誠に仏法の分別あかり申したよと云へば、坊云ふ、いや分別に非す意也。我天地未分の処より万物起り又空に帰るといふ意かと云てせりけれは、坊終に非を知られたり。
書き下し
師因に云ふ、此の両彩一賽に注をなし、方語まで着てあれ共聞えす、各云つて看よ。時に長老あり云ふ、本迷悟なき処に至て見れは、堕脱ともに一枚の意也。時に不三云ふ、是れ意に非す語也。長老云ふ、語に非す意也。不三云ふ、語也。師云はく、是れ語也。殊に本迷悟なき処に至て見れは抔と云ふやうな悪い云ひ様あつてこそ、其方は至た人か、さて其方の見の如きは、未た天地の沙汰なき処より、二義分ち、世界となり万物具る。然るに其未分の処に至て見れは、皆たは事と云ふ心か。長老云ふ、是。師云はく、是れ意にあらす分別也。此の前、玄俊坊此頃法意を得ると云はれたる事あり。我其意を問へば、坊云ふ、なしなしのなしの木になしの花さきさつさつとちる。我誠に仏法の分別あかり申したよと云へば、坊云ふ、いや分別に非す意也。我天地未分の処より万物起り又空に帰るといふ意かと云てせりけれは、坊終に非を知られたり。
現代語訳
師はついでに言われた。「この『両彩一賽』に注をつけ、方語(禅語の解釈)まで添えてあるが、よくわからない。めいめい言ってみよ」。その時ある長老が言った。「もともと迷いも悟りもない所に至って見れば、落ちるも脱するも一枚だという意です」。すると不三が言った。「それは意ではなく、言葉です」。長老「言葉ではなく意です」。不三「言葉です」。師は言われた。「それは言葉だ。とりわけ『もともと迷悟のない所に至って見れば』などという悪い言い方をするからには、そなたは至り着いた人なのか。さてそなたの見方というのは、まだ天地の区別もない所から二つに分かれ、世界となり万物がそなわる、しかしその未分の所に至って見れば、みな戯言だという心か」。長老「そうです」。師は言われた。「それは意ではなく分別である。以前、玄俊坊が近ごろ法の意を得たと言われたことがあった。私がその意を問うと、坊は『なしなしの梨の木に、梨の花咲き、さっさっと散る』と言った。私が『まことに仏法の分別が上がりましたな』と言うと、坊は『いや、分別ではなく意です』と言う。私が『天地未分の所から万物が起こり、また空に帰るという意か』と問い詰めると、坊はついに誤りを認められた」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷中今時此の見によつて悟たるなどゝ心得、人をそこななふ類多き也。さて我云ふは、意の事に非す、分別にて分る処也。両彩一賽に句面を着けは、時のころびあひ也と云ふへし。其は両彩共に一つやうに目はもつたれ共、時のころびあひにて別に見やる也。何と能い喩てではをりないか。先にいふ如く不落不昧は、両百丈の事我知らす、無門の頌意もしらす。只譬喩は如是と云ふへき也。総して乗らぬ事をさまざま云はんとする程に、云ふ程当らず、縦ひ云ひ当ても、そではなし。譬は盲目のろこの赤紙といはれて、あらゆる色紙を出して問ひ尽して当るか如しと也。
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『驢鞍橋』卷下一日、語て曰く、言句に叶ひたると自性に叶ひたるとは各別也。何れも少し徹して覚えたり。喩へは諸行無常の意に徹すれは、事々に諸行無常の文先きに出る位あり。扨て又自性に叶ひたるは、無し無し無しで無体也。大に差別有りと也。
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『驢鞍橋』卷中百丈野狐の話に無門頌して曰く。不落と不昧と、両彩一賽。不昧と不落と、千錯万錯。師衆に向て云はく、不落不昧両彩一賽と云ふは。不落不昧ともに善いといふ事か、悪いといふ事か。一僧云ふ、堕脱一枚は取り道也。師云はく、千錯万錯。師又問ふ。古人如是千錯万錯と云ひ、又は莫妄想と云はれけるが、然らば無門頌しておいたも錯りか、又仏諸経を説き置きたまふも錯りか。衆語無し。師云はく、莫妄想と云ふ意を移そふか為め也。
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『驢鞍橋』卷中問ふ、句能く意を削る。此の意如何、答て曰く、意をせらは句を以てせられすして、何を以てせんや。又我意の足らさる処をも、句を以てこそ知らずんと也。問ふ、意能く句を削る。此の意如何。答て曰く、我意の強い程、句の処は見ゆる也。問ふ、因果に落ちず、什麼としてか野狐に堕す。答て曰く、不落と云ふた人の前には、きつかと因果あり。問ふ、因果を昧まさず、什麼としてか野狐を脱す。答て曰く、不昧と云ふは、六道四生遊戯三昧の人也。けれう不落を救はん為めに、語は不昧と云ふたぞ。
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『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、口にて云ふ処は老子の教も、孔子の教も、昔天竺に発興せし外道の教も、仏道も一つ也。少しも替はる事なし。御坊主達分ち得るや。良有りて曰、諸道皆分別を以て、修し詰めたる処を至極として、分別の外に心の開くると云ふ事を不知、仏祖の道は心の開くる事を本意とす。同じ仏法の中にも、教家には経教の道理を能くすまし窮めたるより外、別の事無しと思ひ、道理の外に意の移つると云ふ事を不知、禅法のみ文字に不依、道理を離れて只意を得る事を本意とす。此道は学文する程、道理に落ちて意に遠く成る也。此故に禅宗には学解を堅く制すると也。
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『驢鞍橋』卷上一日意の暗き行者を諫めて曰く、其方は先づ言句を錬鍛べて意に徹すへし。彼者云、某一処を守る機有り、熟せば万事に相応すべき間、言句の意を明めて詮なしと存ず。但し無理に强く修すると、意を受くると差別有りや。師曰、中々意暗くしては修行はかどるべからす、先づ其方は専ら意を受習はるべしと也。
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