驢鞍橋 / 卷中
無門曰。參禪須透祖師關。妙悟要窮心路絕。祖關不透。心路不絕。盡是依草附木精靈云云。一僧云ふ、古來よりの注共に附木の精靈とは、未透關の者は、死後木の葉草の葉を貪る虫類となるとあり。此の注の如くならは、今時の者皆死後虫となるへき間、此の後は人間ある人からす。又今時の人を見るに、透關の人も無きが、なせ人間とは生れ來るや。師云はく、依草附木の精靈と云ふは、死して後の事にあらす。心路絕せざる者は、只今みな依草附木の精靈也。其故は一切に離れ獨達する事を得す、あれには着き是には着きする者は、皆是れ附木の精靈也。
新字:無門曰。参禅須透祖師関。妙悟要窮心路絶。祖関不透。心路不絶。尽是依草附木精霊云云。一僧云ふ、古来よりの注共に附木の精霊とは、未透関の者は、死後木の葉草の葉を貪る虫類となるとあり。此の注の如くならは、今時の者皆死後虫となるへき間、此の後は人間ある人からす。又今時の人を見るに、透関の人も無きが、なせ人間とは生れ来るや。師云はく、依草附木の精霊と云ふは、死して後の事にあらす。心路絶せざる者は、只今みな依草附木の精霊也。其故は一切に離れ独達する事を得す、あれには着き是には着きする者は、皆是れ附木の精霊也。
書き下し
無門曰く。参禅は須らく祖師の関を透るべし。妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。祖関透らず、心路絶せずんば、尽く是れ依草附木の精霊ならん云云。一僧云ふ、古来よりの注共に附木の精霊とは、未透関の者は、死後木の葉草の葉を貪る虫類となるとあり。此の注の如くならは、今時の者皆死後虫となるへき間、此の後は人間ある人からす。又今時の人を見るに、透関の人も無きが、なせ人間とは生れ来るや。師云はく、依草附木の精霊と云ふは、死して後の事にあらす。心路絶せざる者は、只今みな依草附木の精霊也。其故は一切に離れ独達する事を得す、あれには着き是には着きする者は、皆是れ附木の精霊也。
現代語訳
無門が言った。「参禅には、必ず祖師の関所を通り抜けなければならない。すぐれた悟りには、心の道筋が窮まって絶えることが必要である。祖師の関を通らず、心の道筋が絶えなければ、すべて草にすがり木に取りつく亡霊である」。ある僧が言った。「昔からの注釈では、草に依り木に附く精霊とは、関を透らない者が死後に木の葉や草の葉をむさぼる虫になることだとあります。この注のとおりなら、今の者はみな死後に虫になるはずですから、これから先は人間がいなくなるはずです。また今の人を見ると、関を透った人もいないのに、どうして人間に生まれて来るのでしょうか」。師は言われた。「依草附木の精霊というのは、死んだ後のことではない。心の道筋が絶えていない者は、今この時、みな依草附木の精霊である。なぜなら、一切から離れて独り立ちすることができず、あれにもつき、これにもつきする者は、みな木に取りつく亡霊だからである」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『無門関』第一則 趙州狗子無門曰く、参禅は須らく祖師の関を透るべし。妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。祖関透らず、心路絶せずんば、尽く是れ依草附木の精霊ならん。且く道え、如何なるか是れ祖師の関。只だ者の一箇の無字、乃ち宗門の一関なり。遂に之を目けて禅宗無門関と曰う。透得過する者は、但だ親しく趙州に見ゆるのみに非ず、便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛廝い結んで、同一眼に見、同一耳に聞くべし。豈に慶快ならざらんや。透関を要する底有ること莫しや。三百六十の骨節、八万四千の毫竅を将て、通身に箇の疑団を起こして、箇の無字に参ぜよ。昼夜に提撕して、虚無の会を作すこと莫かれ、有無の会を作すこと莫かれ。箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相似て、吐けども又た吐き出さず。従前の悪知悪覚を蕩尽して、久久に純熟すれば、自然に内外打成一片ならん。啞子の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。驀然として打発せば、天を驚かし地を動ぜん。関将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭に於いて大自在を得、六道四生の中に向かって遊戯三昧ならん。且く作麼生か提撕せん。平生の気力を尽くして、箇の無字を挙せよ。若し間断せずんば、好し、法燭の一点すれば便ち著くに似ん。頌に曰く、狗子仏性、全提正令。纔かに有無に渉れば、喪身失命せん。
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『驢鞍橋』卷上一日僧来りて問ふ。去る僧古則を提撕して死しけるか、幽霊に成りたると承はる。此道理有りや。師答て曰、悟を求めて死したらばさぞ有るべし、兎角悟を求むる修行はあぶなしと也。
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『無門関』第四十七則 兜率三關兜率(とそつ)の悅和尚、三關を設けて學者に問ふ。「撥草參玄は只だ性を見んと圖(はか)る。即今上人の性、甚(いづ)れの處にか在る」。「自性を識得すれば、方に生死を脫す。眼光落つる時、作麼生(そもさん)か脫せん」。「生死を脫し得ば、便ち去處を知る。四大分離して、甚れの處に向かひてか去る」。
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『無門関』自序仏語は心を宗と為し、無門を法門と為す。既に是れ無門、且く作麼生か透らん。豈に道うことを見ずや、門より入る者は是れ家珍にあらず、縁に従って得る者は始終成壊すと。恁麼の説話、大いに風無きに浪を起こし、好肉に瘡を剜るに似たり。何ぞ況んや言句に滞り、解会を覓むるをや。棒を掉って月を打ち、靴を隔てて痒きを爬く、甚の交渉か有らん。慧開、紹定戊子の夏、東嘉の龍翔に首衆たり。衲子の請益に因って、遂に古人の公案を将て、門を敲く瓦子と作し、機に随って学者を引導す。竟爾として抄録し、覚えず集を成す。初めより前後を以て叙列せず、共に四十八則と成し、通じて無門関と曰う。若し是れ箇の漢ならば、危亡を顧みず単刀直入せん、八臂の那吒も他を攔えて住めず。縦使い西天の四七、東土の二三も、只だ風を望んで命を乞うことを得ん。設し或いは躊躇せば、也た窓を隔てて馬騎を看るに似て、眼を貶き得来たれば、早已に蹉過せん。頌に曰く、大道無門、千差路有り。此の関を透得せば、乾坤に独歩せん。
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『驢鞍橋』卷中師曰く我に離るゝ事也、我にさへ離れぬれは、万徳を使ふ也。性は明るがらうとも、暗からうとも、行は強からうとも弱からうとも、只我に離るゝ筋を勤めは、万徳の筋を修する人也。志のないと云ふも、我に離れ度き心の無きを云ふ也。扨て此の外物知りの、学者の、行者の、能筆の、作者の抔と云ふは、法中の芸者也。正法にあらす縦ひ一文不通なりとも我に離るゝ筋を修する人を正法と定れは、誰れも聞く事に非すや。加様の大すへをさへ知りめされぬは愚なる事也。あつたら雑談を其方達に聞かせたり。能く耳のある者に聞かせたし。是れ程の事も正三が死ねば、誰れても沙汰してかをりない御坊主達、聞き置てくれめされよと也。
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『驢鞍橋』卷上一日曰く、今時の修行者、皆古人の嫌道を免かるべからず。大略無門の禅の箴、或は大恵八種の嫌道等に落ち居て、修行と思ひ、法を得たり抔と思はるゝと見えたり。故に抜けがら坐禅を為し、あつか忘然と成りて、物を思はざる処を無念無心と思ふ人あり。是れ大なる錯也。如是用ふる者は機へりて病者と成り、気違と成る也。夫れ仏法の無念無心と云ふは、一切の上に用ふる無念無心也。悲む時も、悅ふ時も、万事の上に使ふ無念無心也。其故は仏涅槃の時、迦葉阿難を始め皆悲み玉ふ。是れをも有心なりと云はんや。扨亦此無念を用ふる坐禅の筋と云ふは、只勇猛心を用ふる一つ也。能く此筋を受くべし。此筋を弁へたる人は、自らの修行弱しと云ふとも、諸の修行者の為めに宝也。
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