驢鞍橋 / 卷中
興陽讓和尙因僧問。大通智勝佛十刧坐道塲佛法不現前不得成佛道時如何。讓云。其問甚諦當。師向衆云ふ、此の外別に答へて看よ。一僧云ふ、向二頭三首莫道。一僧云ふ、用成佛爲甚麼。師いづれもむかふに意を移す位弱しと云ふて、便ち云はく、大通佛に相見し來れ、汝に向つて道はんと也。
新字:興陽譲和尚因僧問。大通智勝仏十刧坐道塲仏法不現前不得成仏道時如何。譲云。其問甚諦当。師向衆云ふ、此の外別に答へて看よ。一僧云ふ、向二頭三首莫道。一僧云ふ、用成仏為甚麼。師いづれもむかふに意を移す位弱しと云ふて、便ち云はく、大通仏に相見し来れ、汝に向つて道はんと也。
書き下し
興陽譲和尚、因みに僧問ふ。大通智勝仏、十劫道場に坐して、仏法現前せず、仏道を成ずることを得ざる時如何。譲云く。其の問ひ甚だ諦当なり。師衆に向て云ふ、此の外別に答へて看よ。一僧云ふ、二頭三首に向つて道ふこと莫れ。一僧云ふ、成仏を用ゐて甚麼か為ん。師いづれもむかふに意を移す位弱しと云ふて、便ち云はく、大通仏に相見し来れ、汝に向つて道はんと也。
現代語訳
興陽の清譲和尚に、ある僧が問うた。「大通智勝仏は十劫の間道場に坐っていたのに、仏法が現れず、仏道を成就できなかったというのは、どういうことですか」。清譲は「その問いはまことに的を射ている」と答えた。師は僧たちに向かって言われた。「これとは別の答えを言ってみよ」。ある僧は「二つの頭、三つの首に向かって言ってはならない」と言った。別の僧は「成仏して何になるのか」と言った。師は、どちらも相手の方に心が移っていて力が弱いと言い、すぐに言われた。「大通仏に会ってこい。そうしたらお前に言ってやろう」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『無門関』第九則 大通智勝興陽の讓和尚、僧の問ふに因る、「大通智勝佛、十劫道場に坐して、佛法現前せず、佛道を成ずるを得ざる時如何」。讓曰く、「其の問甚だ諦當(たいとう)なり」。僧云く、「既に是れ道場に坐す、爲甚麼(なにゆゑ)にか佛道を成ずるを得ざる」。讓曰く、「伊(かれ)が成佛せざるが爲なり」。
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『臨済録』示衆秖だ諸方の六度万行を説いて以て仏法と為すが如きは、我れ道う、是れ荘厳門・仏事門にして、是れ仏法にあらずと。乃至持斎持戒し、油を擎げて[泳-永+閃](こぼ)さざるも、道眼明らかならずんば、尽く須らく債を抵すべし。飯銭を索めらるる日有らん。何が故ぞ此の如くなる。道に入って理に通ぜずんば、身を復して信施を還す。長者八十一、其の樹耳を生ぜず。乃至孤峰に独宿し、一食卯斎し、長坐不臥し、六時に行道するも、皆な是れ業を造る底の人なり。乃至頭目髄脳、国城妻子、象馬七珍、尽く皆な捨施するも、是の如き等の見は皆な是れ身心を苦しむるが故に、還って苦果を招く。如かず無事にして純一無雑ならんには。乃至十地満心の菩薩も、皆な此の道流の蹤跡を求むるに了に得べからず。所以に諸天歓喜し、地神足を捧げ、十方の諸仏称歎せざる無し。何に縁ってか此の如くなる。今聴法する道人の用処に蹤跡無きが為なり。」問う、「大通智勝仏、十劫道場に坐すも、仏法現前せず、仏道を成ずることを得ず。未審し此の意如何。乞う師指示したまえ。」師云く、「大通とは、是れ自己なり。処処に於いて其の万法の無性無相なることに達するを、名づけて大通と為す。智勝とは、一切処に於いて疑わず、一法をも得ざるを、名づけて智勝と為す。仏とは、心清浄にして光明法界を透徹するを、名づけて仏と為すことを得。十劫道場に坐すとは、十波羅密是れなり。仏法現前せずとは、仏は本と生ぜず、法は本と滅せず、云何ぞ更に現前すること有らん。仏道を成ずることを得ずとは、仏は応に更に仏と作るべからず。古人云く、『仏は常に世間に在して、而も世間の法に染まらず。』道流、爾作仏せんと欲得せば、万物に随うこと莫かれ。心生ずれば種種の法生じ、心滅すれば種種の法滅す。一心生ぜざれば、万法咎無し。世と出世と、仏無く法無し。亦た現前せず、亦た曾て失わず。
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『驢鞍橋』卷中同録に。臨済曰く。大通とは、是れ自己処々に於て其の万法の無性無相に達するを、名づけて大通と為す。智勝とは、一切処に於て疑はず、一法をも得ざるを、名づけて智勝と為す。仏とは、心清浄にして光明法界を透徹するを、名づけて仏と為すことを得。十劫道場に坐すとは、十波羅蜜是れなり。仏法現前せずとは、仏は本不生、法は本不滅、云何ぞ更に現前すること有らん。仏道を成ずることを得ずとは、仏は応に更に仏と作るべからず。師曰く、此の十波羅蜜と云ふは、如何にしても林際の語にあらじ、編者の錯りなるべし。但し□育の余習尽きさるか十波羅蜜と云へは、早や仏法現前也、不現前にあらす。我いへは、無始無終の義とも、無量寿の義とも云ふべし。又仏本不生と云ふも、余所の仏に聞ゆるなり。時に一僧、師に問ふ。師云はく、大通とは、此の心に徹底して、自己と虚空と隔無き義也。智勝とは、万法の上と成りて、万事を使ふて自由の義なり。仏とは、如是の心也。十劫坐道場とは、不生不滅の義也。仏法不現前不得成仏道とは、無仏無法無我無人の義也。
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『無門関』第九則 大通智勝無門曰く、只だ老胡の知を許して、老胡の会を許さず。凡夫若し知らば即ち是れ聖人、聖人若し会せば即ち是れ凡夫。頌に曰く、身を了ずるは何ぞ似かん心を了じて休せんには。心を了得すれば身愁えず。若也し身心倶に了了ならば、神仙何ぞ必ずしも更に侯に封ぜられん。
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『驢鞍橋』卷上一日去る人来て成仏を問ふ。師示して曰く、成仏と云ふは本来空に成る事也。元の如く我もなく、人も無く、法も無く、仏も無く、一切にくつとつゝ離れて、手を打払ふて際を明くる事也。悟にても何にても有らは、ろでは無き也。婆子焼庵の古則抔好き証拠也。亦曰く、隙なき人折々来る事無用也、我云ふ程の事は徳用、草分等に書く。あの外は云ふことなし。是れを好く見らるべし。彼者、随分修行仕れど少しも上らすと云ふ。師曰、たやすく成る事に非す、其やうに安く成る事ならば、我は羅漢にも菩薩にも成るへきが未た餓鬼畜生を離れす、然る間次第つよに修すへし。一旦頭の火を払ふ様なりとも、跡つゞかざれば用に立たす、急に成る事と思はゞ退屈すへしと也。
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『驢鞍橋』卷中師□□曰く、此の前、関東の去る渡にて、禅僧出舟を喚ふ。船中に浄土の上人あり曰く、達磨の如くなんそ芦の葉に乗り来らざる。僧無語。又其僧追付き、終に上人を把住して曰く、汝善導の如く三尊の弥陀を吹け、我蘆に乗るへし。時に上人南無阿弥陀仏と三度吹く。僧又無語。是れ二重の敗闘也。此の僧に代て云つて看よ。衆無語。師呵して曰く法のすべ悪しきに仍て云はれすと云つて便ち代て曰く、我は達磨の直指人心見性成仏の道を学ぶ也。更に有相の神通を学ばす。其方は、成仏の道を忘れ、神通奇特を增ひめさる那、愚な人世と云はんすと也。
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