驢鞍橋 / 卷中
同錄。臨濟曰。大通者。是自己於處々達其萬法無性無相。名爲大通。智勝者。於一切處不疑不得一法。名爲智勝。佛者。心淸淨光明透徹法界。得名爲佛。十劫坐道塲者。十波羅蜜是。佛法不現前者。佛本不生。法本不滅。云何更有現前。不得成佛道者。佛不應更作佛。師曰く、此の十波羅蜜と云ふは、如何にしても林際の語にあらじ、編者の錯りなるべし。但し□育の餘習盡きさるか十波羅蜜と云へは、早や佛法現前也、不現前にあらす。我いへは、無始無終の義とも、無量壽の義とも云ふべし。又佛本不生と云ふも、餘所の佛に聞ゆるなり。時に一僧、師に問ふ。師云はく、大通とは、此の心に徹底して、自己と虚空と隔無き義也。智勝とは、萬法の上と成りて、萬事を使ふて自由の義なり。佛とは、如是の心也。十劫坐道塲とは、不生不滅の義也。佛法不現前不得成佛道とは、無佛無法無我無人の義也。
新字:同録。臨済曰。大通者。是自己於処々達其万法無性無相。名為大通。智勝者。於一切処不疑不得一法。名為智勝。仏者。心清浄光明透徹法界。得名為仏。十劫坐道塲者。十波羅蜜是。仏法不現前者。仏本不生。法本不滅。云何更有現前。不得成仏道者。仏不応更作仏。師曰く、此の十波羅蜜と云ふは、如何にしても林際の語にあらじ、編者の錯りなるべし。但し□育の余習尽きさるか十波羅蜜と云へは、早や仏法現前也、不現前にあらす。我いへは、無始無終の義とも、無量寿の義とも云ふべし。又仏本不生と云ふも、余所の仏に聞ゆるなり。時に一僧、師に問ふ。師云はく、大通とは、此の心に徹底して、自己と虚空と隔無き義也。智勝とは、万法の上と成りて、万事を使ふて自由の義なり。仏とは、如是の心也。十劫坐道塲とは、不生不滅の義也。仏法不現前不得成仏道とは、無仏無法無我無人の義也。
書き下し
同録に。臨済曰く。大通とは、是れ自己処々に於て其の万法の無性無相に達するを、名づけて大通と為す。智勝とは、一切処に於て疑はず、一法をも得ざるを、名づけて智勝と為す。仏とは、心清浄にして光明法界を透徹するを、名づけて仏と為すことを得。十劫道場に坐すとは、十波羅蜜是れなり。仏法現前せずとは、仏は本不生、法は本不滅、云何ぞ更に現前すること有らん。仏道を成ずることを得ずとは、仏は応に更に仏と作るべからず。師曰く、此の十波羅蜜と云ふは、如何にしても林際の語にあらじ、編者の錯りなるべし。但し□育の余習尽きさるか十波羅蜜と云へは、早や仏法現前也、不現前にあらす。我いへは、無始無終の義とも、無量寿の義とも云ふべし。又仏本不生と云ふも、余所の仏に聞ゆるなり。時に一僧、師に問ふ。師云はく、大通とは、此の心に徹底して、自己と虚空と隔無き義也。智勝とは、万法の上と成りて、万事を使ふて自由の義なり。仏とは、如是の心也。十劫坐道場とは、不生不滅の義也。仏法不現前不得成仏道とは、無仏無法無我無人の義也。
現代語訳
同じく『臨済録』で臨済は言う。「大通とは、自己がいたる所で、万物に固有の性質も姿もないことに通達していることを、大通と名づける。智勝とは、いかなる所でも疑わず、一つの法も得ないことを、智勝と名づける。仏とは、心が清浄で、その光明が全世界を貫き通していることを、仏と名づけるのである。十劫の間道場に坐すとは、十波羅蜜のことである。仏法が現れないとは、仏はもともと生じず、法はもともと滅しないのだから、どうしてさらに現れることがあろうか、ということである。仏道を成就できないとは、仏がさらに仏になるはずがない、ということである」。師は言われた。「この十波羅蜜というのは、どうしても臨済の語ではあるまい。編者の誤りであろう。ただし(一字読めず)育の名残が尽きていないのか、十波羅蜜と言ってしまえば、もう仏法が現れていることになり、現れないのではない。私なら、始めも終わりもないという意味とも、無量寿という意味とも言うだろう。また『仏はもともと生じない』というのも、よその仏のように聞こえる」。その時ある僧が師に問うた。師は言われた。「大通とは、この心に徹底して、自己と虚空との隔てがないことである。智勝とは、万法の上に立って、万事を使いこなして自由であることである。仏とは、そのような心である。十劫坐道場とは、不生不滅のことである。仏法が現れず仏道を成就できないとは、仏もなく法もなく、我もなく人もないということである」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『臨済録』示衆秖だ諸方の六度万行を説いて以て仏法と為すが如きは、我れ道う、是れ荘厳門・仏事門にして、是れ仏法にあらずと。乃至持斎持戒し、油を擎げて[泳-永+閃](こぼ)さざるも、道眼明らかならずんば、尽く須らく債を抵すべし。飯銭を索めらるる日有らん。何が故ぞ此の如くなる。道に入って理に通ぜずんば、身を復して信施を還す。長者八十一、其の樹耳を生ぜず。乃至孤峰に独宿し、一食卯斎し、長坐不臥し、六時に行道するも、皆な是れ業を造る底の人なり。乃至頭目髄脳、国城妻子、象馬七珍、尽く皆な捨施するも、是の如き等の見は皆な是れ身心を苦しむるが故に、還って苦果を招く。如かず無事にして純一無雑ならんには。乃至十地満心の菩薩も、皆な此の道流の蹤跡を求むるに了に得べからず。所以に諸天歓喜し、地神足を捧げ、十方の諸仏称歎せざる無し。何に縁ってか此の如くなる。今聴法する道人の用処に蹤跡無きが為なり。」問う、「大通智勝仏、十劫道場に坐すも、仏法現前せず、仏道を成ずることを得ず。未審し此の意如何。乞う師指示したまえ。」師云く、「大通とは、是れ自己なり。処処に於いて其の万法の無性無相なることに達するを、名づけて大通と為す。智勝とは、一切処に於いて疑わず、一法をも得ざるを、名づけて智勝と為す。仏とは、心清浄にして光明法界を透徹するを、名づけて仏と為すことを得。十劫道場に坐すとは、十波羅密是れなり。仏法現前せずとは、仏は本と生ぜず、法は本と滅せず、云何ぞ更に現前すること有らん。仏道を成ずることを得ずとは、仏は応に更に仏と作るべからず。古人云く、『仏は常に世間に在して、而も世間の法に染まらず。』道流、爾作仏せんと欲得せば、万物に随うこと莫かれ。心生ずれば種種の法生じ、心滅すれば種種の法滅す。一心生ぜざれば、万法咎無し。世と出世と、仏無く法無し。亦た現前せず、亦た曾て失わず。
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『驢鞍橋』卷中興陽譲和尚、因みに僧問ふ。大通智勝仏、十劫道場に坐して、仏法現前せず、仏道を成ずることを得ざる時如何。譲云く。其の問ひ甚だ諦当なり。師衆に向て云ふ、此の外別に答へて看よ。一僧云ふ、二頭三首に向つて道ふこと莫れ。一僧云ふ、成仏を用ゐて甚麼か為ん。師いづれもむかふに意を移す位弱しと云ふて、便ち云はく、大通仏に相見し来れ、汝に向つて道はんと也。
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『無門関』第九則 大通智勝興陽の讓和尚、僧の問ふに因る、「大通智勝佛、十劫道場に坐して、佛法現前せず、佛道を成ずるを得ざる時如何」。讓曰く、「其の問甚だ諦當(たいとう)なり」。僧云く、「既に是れ道場に坐す、爲甚麼(なにゆゑ)にか佛道を成ずるを得ざる」。讓曰く、「伊(かれ)が成佛せざるが爲なり」。
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『無門関』第九則 大通智勝無門曰く、只だ老胡の知を許して、老胡の会を許さず。凡夫若し知らば即ち是れ聖人、聖人若し会せば即ち是れ凡夫。頌に曰く、身を了ずるは何ぞ似かん心を了じて休せんには。心を了得すれば身愁えず。若也し身心倶に了了ならば、神仙何ぞ必ずしも更に侯に封ぜられん。
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『臨済録』示衆問ふ、「如何なるか是れ真佛・真法・真道。乞ふ開示を垂れよ」と。師云く、「佛とは、心の清淨なる是れなり。法とは、心の光明なる是れなり。道とは、處處無礙の淨光是れなり。三は即ち一にして、皆な是れ空名にして寔有無し。真正に道を學ぶ人の念念に心間斷せざるが如し。達磨大師の西土より來りしより、秖だ是れ箇の人の惑を受けざる底の人を覓む。後に二祖に遇ひ、一言にして便ち了る。始めて從前虛しく功夫を用ゐしを知る。山僧が今日の見處は祖佛と別ならず。若し第一句中に得ば、祖佛と師と為らん。若し第二句中に得ば、人天と師と為らん。若し第三句中に得ば、自ら救ふも了せじ」と。
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『臨済録』示衆「爾道ふ、佛に六通有るは是れ不可思議なりと。一切の諸天・神仙・阿修羅・大力鬼も亦た神通有り。應に是れ佛なるべきや。道流錯る莫かれ。秖だ阿修羅と天帝釋と戰ひ、戰ひ敗れて八萬四千の眷屬を領して藕絲の孔中に入りて藏るるが如し。莫や是れ聖なるか。山僧が舉ぐる所の如きは、皆な是れ業通・依通なり。夫れ佛の六通の如きは然らず。色界に入るも色に惑はされず、聲界に入るも聲に惑はされず、香界に入るも香に惑はされず、味界に入るも味に惑はされず、觸界に入るも觸に惑はされず、法界に入るも法に惑はされず。所以に六種の色・聲・香・味・觸・法は皆な是れ空相にして、繫縛すること能はずと達す。此の無依の道人は、是れ五蘊漏質なりと雖も、便ち是れ地行の神通なり。
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