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無門関 / 第九則 大通智勝

【無門曰】只許老胡知。不許老胡會。凡夫若知即是聖人。聖人若會即是凡夫。【頌曰】了身何似了心休 了得心兮身不愁 若也身心俱了了 神仙何必更封侯

新字:【無門曰】只許老胡知。不許老胡会。凡夫若知即是聖人。聖人若会即是凡夫。【頌曰】了身何似了心休 了得心兮身不愁 若也身心倶了了 神仙何必更封侯

書き下し

無門曰く、只だ老胡の知を許して、老胡の会を許さず。凡夫若し知らば即ち是れ聖人、聖人若し会せば即ち是れ凡夫。頌に曰く、身を了ずるは何ぞ似かん心を了じて休せんには。心を了得すれば身愁えず。若也し身心倶に了了ならば、神仙何ぞ必ずしも更に侯に封ぜられん。

現代語訳

無門は言う。異国の老人(達磨)が知ることは認めるが、理解することは認めない。凡夫がもし知るならそれは聖人であり、聖人がもし理屈で理解するならそれは凡夫である。頌に言う。身を始末するのは、心を始末して休むのに及ばない。心を始末できれば、身は憂えない。もし身も心もすっかり明らかになったなら、神仙がどうしてさらに諸侯に封じられる必要があろうか。

解説

大通智勝仏は十劫も道場に坐りながら成仏しなかった、それはなぜかと問われ、興陽の譲和尚が「彼が成仏しなかったからだ」と答えた第九則への評唱である。無門は「知」と「会」を分ける。知は体でじかに知ること、会は頭で理解して納得することだ。凡夫でも知れば聖人、聖人でも理屈で会得した気になれば凡夫だという逆転は、禅の知のあり方をよく示す。成仏しようと坐り続けること自体が、すでに仏であることを見失わせる。頌は、身体の修行よりも心を休めることを勧め、それができれば神仙が爵位を求めないように、外からの肩書きなど要らないと結ぶ。仕事でも、資格や役職を積み上げて一人前になろうとするほど、実力そのものから離れていくことがある。

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