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臨済録 / 示衆

秖如諸方說六度萬行以為佛法,我道是莊嚴門、佛事門,非是佛法,乃至持齋、持戒,擎油不[泳-永+閃],道眼不明,盡須抵債,索飯錢有日在。何故如此?入道不通理,復身還信施。長者八十一,其樹不生耳,乃至孤峯獨宿,一食卯齋,長坐不臥,六時行道皆是造業底人,乃至頭、目、髓、腦、國城、妻子、象、馬、七珍盡皆捨施,如是等見皆是苦身心故,還招苦果,不如無事純一無雜。乃至十地滿心菩薩皆求此道流蹤跡了不可得,所以諸天歡喜,地神捧足,十方諸佛無不稱歎。緣何如此?為今聽法道人用處無蹤跡。」問:「大通智勝佛十劫坐道場,佛法不現前,不得成佛道。未審此意如何?乞師指示。」師云:「大通者,是自己,於處處達其萬法無性、無相,名為大通。智勝者,於一切處不疑、不得一法,名為智勝。佛者,心清淨,光明透徹法界,得名為佛。十劫坐道場者,十波羅密是。佛法不現前者,佛本不生、法本不滅,云何更有現前?不得成佛道者,佛不應更作佛。古人云:『佛常在世間,而不染世間法。』道流!爾欲得作佛,莫隨萬物。心生種種法生、心滅種種法滅,一心不生,萬法無咎。世與出世,無佛、無法,亦不現前、亦不曾失。

新字:秖如諸方説六度万行以為仏法,我道是荘厳門、仏事門,非是仏法,乃至持斎、持戒,擎油不[泳-永+閃],道眼不明,尽須抵債,索飯銭有日在。何故如此?入道不通理,復身還信施。長者八十一,其樹不生耳,乃至孤峯独宿,一食卯斎,長坐不臥,六時行道皆是造業底人,乃至頭、目、髄、脳、国城、妻子、象、馬、七珍尽皆捨施,如是等見皆是苦身心故,還招苦果,不如無事純一無雑。乃至十地満心菩薩皆求此道流蹤跡了不可得,所以諸天歓喜,地神捧足,十方諸仏無不称嘆。縁何如此?為今聴法道人用処無蹤跡。」問:「大通智勝仏十劫坐道場,仏法不現前,不得成仏道。未審此意如何?乞師指示。」師云:「大通者,是自己,於処処達其万法無性、無相,名為大通。智勝者,於一切処不疑、不得一法,名為智勝。仏者,心清浄,光明透徹法界,得名為仏。十劫坐道場者,十波羅密是。仏法不現前者,仏本不生、法本不滅,云何更有現前?不得成仏道者,仏不応更作仏。古人云:『仏常在世間,而不染世間法。』道流!爾欲得作仏,莫随万物。心生種種法生、心滅種種法滅,一心不生,万法無咎。世与出世,無仏、無法,亦不現前、亦不曽失。

書き下し

秖だ諸方の六度万行を説いて以て仏法と為すが如きは、我れ道う、是れ荘厳門・仏事門にして、是れ仏法にあらずと。乃至持斎持戒し、油を擎げて[泳-永+閃](こぼ)さざるも、道眼明らかならずんば、尽く須らく債を抵すべし。飯銭を索めらるる日有らん。何が故ぞ此の如くなる。道に入って理に通ぜずんば、身を復して信施を還す。長者八十一、其の樹耳を生ぜず。乃至孤峰に独宿し、一食卯斎し、長坐不臥し、六時に行道するも、皆な是れ業を造る底の人なり。乃至頭目髄脳、国城妻子、象馬七珍、尽く皆な捨施するも、是の如き等の見は皆な是れ身心を苦しむるが故に、還って苦果を招く。如かず無事にして純一無雑ならんには。乃至十地満心の菩薩も、皆な此の道流の蹤跡を求むるに了に得べからず。所以に諸天歓喜し、地神足を捧げ、十方の諸仏称歎せざる無し。何に縁ってか此の如くなる。今聴法する道人の用処に蹤跡無きが為なり。」問う、「大通智勝仏、十劫道場に坐すも、仏法現前せず、仏道を成ずることを得ず。未審し此の意如何。乞う師指示したまえ。」師云く、「大通とは、是れ自己なり。処処に於いて其の万法の無性無相なることに達するを、名づけて大通と為す。智勝とは、一切処に於いて疑わず、一法をも得ざるを、名づけて智勝と為す。仏とは、心清浄にして光明法界を透徹するを、名づけて仏と為すことを得。十劫道場に坐すとは、十波羅密是れなり。仏法現前せずとは、仏は本と生ぜず、法は本と滅せず、云何ぞ更に現前すること有らん。仏道を成ずることを得ずとは、仏は応に更に仏と作るべからず。古人云く、『仏は常に世間に在して、而も世間の法に染まらず。』道流、爾作仏せんと欲得せば、万物に随うこと莫かれ。心生ずれば種種の法生じ、心滅すれば種種の法滅す。一心生ぜざれば、万法咎無し。世と出世と、仏無く法無し。亦た現前せず、亦た曾て失わず。

現代語訳

諸方で六度万行を説いて、それを仏法だとしているようなものは、わたしに言わせれば、飾り立ての門、仏事の門であって、仏法ではない。斎を守り戒を保ち、油の入った器を捧げ持って一滴もこぼさない(欠字をこぼす意と推す)ほど慎重であっても、道を見る眼が明らかでなければ、いずれ残らず借りを返さねばならない。飯代を取り立てられる日が来る。なぜそうなるのか。道に入っても理に通じなければ、生まれ変わって信者の施しを返すことになるからだ。長者が八十一歳になると、その木には茸が生えなくなった(施しに見合わぬ僧が木の茸に生まれて借りを返していたという話)。孤峰に独り宿り、朝に一度だけ食事をとり、横にならずに坐り続け、昼夜六回の勤行をしても、みな業をつくっている人である。頭や目や髄や脳、国や城や妻子、象や馬や七つの宝をことごとく施しても、こういう見方はみな身心を苦しめるものだから、かえって苦しい報いを招く。何事もなく、純一で混じりけのないのにこしたことはない。十地を満たした菩薩でさえ、この修行者の足跡を探しても、まったく見つけられない。だから天の神々は喜び、地の神は足を捧げ持ち、十方の諸仏は褒め称えないことがない。なぜそうなのか。今法を聞いている道人のはたらきには、足跡がないからだ。」僧が問うた。「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ、法華経に説かれる過去の仏)は十劫のあいだ道場に坐ったが、仏法は現れず、仏道を成就できなかったという。この意味はどういうことか。どうかお示しいただきたい。」師は言った。「大通とは自分自身のことだ。至るところで万物に本性も姿もないことに通じている、それを大通と名づける。智勝とは、どこにいても疑わず、一つの法も得ない、それを智勝と名づける。仏とは、心が清らかで、その光明が法界を貫き通している、それを仏と名づけるのだ。十劫道場に坐るとは、十波羅蜜(十の完成された修行)のことだ。仏法が現れないとは、仏はもともと生じず、法はもともと滅しないのに、どうしてさらに現れることがあろうか、ということだ。仏道を成就できないとは、仏がさらに仏になるはずがない、ということだ。古人は「仏は常に世間にいて、しかも世間の法に染まらない」と言った。修行者たちよ、仏になりたいなら、万物に振り回されるな。心が生じればさまざまな法が生じ、心が滅すればさまざまな法が滅する。一心が生じなければ、万法に咎はない。世間にも世間を超えたところにも、仏もなく法もない。現れることもなく、失われたこともない。

解説

六度万行、持戒、苦行、捨身の布施といった伝統的な修行を、臨済は飾り立てと仏事にすぎず仏法ではないと言い切る。道を見る眼がなければ、どれほど厳しい行も施しへの借りを増やすだけだという。後半の問答では、法華経の大通智勝仏の話を、自分自身のことに読み替えてみせる。十劫坐っても成仏しないのは、仏がさらに仏になる必要などないからだ、という解釈は、外の目標を追わない臨済の立場を鮮やかに示す。熱心に働くことや規律を守ることは尊いが、何のためかという眼を欠けば、努力は空回りし、自分も周りも疲れさせる。行動量より先に、見る眼を磨けという警告として読める。

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