驢鞍橋 / 卷中
經曰。淸淨行者不入涅槃。破戒比丘不墮地獄。師着語曰く。珍重。便ち曰く、淸淨の行者とは、一切を離れ、涅槃を超ゑたる人を云ふ也。破戒の比丘とは、地獄天堂を蹈み破つた人を云ふ也。
新字:経曰。清浄行者不入涅槃。破戒比丘不堕地獄。師着語曰く。珍重。便ち曰く、清浄の行者とは、一切を離れ、涅槃を超ゑたる人を云ふ也。破戒の比丘とは、地獄天堂を蹈み破つた人を云ふ也。
書き下し
経に曰く。清浄の行者は涅槃に入らず。破戒の比丘は地獄に堕ちず。師着語して曰く。珍重。便ち曰く、清浄の行者とは、一切を離れ、涅槃を超ゑたる人を云ふ也。破戒の比丘とは、地獄天堂を蹈み破つた人を云ふ也。
現代語訳
経に言う。「清浄な行者は涅槃に入らない。戒を破った比丘は地獄に堕ちない」。師はこれに短い評語をつけて「珍重(ごきげんよう)」と言われた。そして言われた。清浄の行者とは、一切から離れ、涅槃さえも超えた人のことである。破戒の比丘とは、地獄も天国も踏み破った人のことである、と。
解説
冒頭の句は、禅録にしばしば引かれる逆説的な経の言葉である。清浄な行者が涅槃に入らず、破戒の僧が地獄に堕ちないというのは、常識をひっくり返す言い方だ。正三はまず「珍重」とだけ着語して突き放し、そのうえで、清浄とは涅槃すら超えること、破戒とは地獄も天国も踏み破ることだと読み替えた。戒律を守るか破るかという表面ではなく、どこにも執着しない境地を指すというのである。善悪や成功失敗の評価そのものにとらわれない心の自由を、仕事の場でも考えさせる一条だ。
この章句が説くこと
涅槃地獄執着着語清浄破戒
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『驢鞍橋』卷下一日、去る人来り曰く何某は殊勝の僧にて、常に誦経計せらるゝ也。師聞て曰く、夫れても娑婆は大切なるべしと也。
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