驢鞍橋 / 卷下
一日、示して曰く、今時の修行者、大略輪廻の業を免るべからす。夫れ成佛と云ふは、三界出離を旨として、名に離れ相に離れ、我に離れ、娑婆に離れ、一切にぐつと離ること也。總而此の娑婆にあらゆることの間に落るは、皆是れ輪廻の業と也。
新字:一日、示して曰く、今時の修行者、大略輪廻の業を免るべからす。夫れ成仏と云ふは、三界出離を旨として、名に離れ相に離れ、我に離れ、娑婆に離れ、一切にぐつと離ること也。総而此の娑婆にあらゆることの間に落るは、皆是れ輪廻の業と也。
書き下し
一日、示して曰く、今時の修行者、大略輪廻の業を免るべからす。夫れ成仏と云ふは、三界出離を旨として、名に離れ相に離れ、我に離れ、娑婆に離れ、一切にぐつと離ること也。総而此の娑婆にあらゆることの間に落るは、皆是れ輪廻の業と也。
現代語訳
ある日示して言われた。今どきの修行者は、たいてい輪廻の業を免れることはできない。そもそも成仏というのは、三界を出離することを旨として、名を離れ、形を離れ、我を離れ、娑婆を離れ、一切からぐっと離れることである。おおよそこの娑婆のあらゆることの間に落ちるのは、みな輪廻の業である、と。
解説
成仏とは、名誉からも、形からも、自我からも、この世のあらゆることからも、ぐっと離れることだ、と正三は言う。世の中のあれこれに心が落ち込んでいくのは、すべて迷いの繰り返しを生む業である、と。今の修行者はたいてい、修行の形を取りながら名誉や自我にとらわれ、同じ迷いを繰り返している、という批判でもある。評価や肩書きに縛られた心の在り方を問い直す、短く明快な条である。
この章句が説くこと
成仏輪廻離れる名誉自我娑婆
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日去る人来て成仏を問ふ。師示して曰く、成仏と云ふは本来空に成る事也。元の如く我もなく、人も無く、法も無く、仏も無く、一切にくつとつゝ離れて、手を打払ふて際を明くる事也。悟にても何にても有らは、ろでは無き也。婆子焼庵の古則抔好き証拠也。亦曰く、隙なき人折々来る事無用也、我云ふ程の事は徳用、草分等に書く。あの外は云ふことなし。是れを好く見らるべし。彼者、随分修行仕れど少しも上らすと云ふ。師曰、たやすく成る事に非す、其やうに安く成る事ならば、我は羅漢にも菩薩にも成るへきが未た餓鬼畜生を離れす、然る間次第つよに修すへし。一旦頭の火を払ふ様なりとも、跡つゞかざれば用に立たす、急に成る事と思はゞ退屈すへしと也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る処の小姓両人来り法要を問ふ。師示して曰く、修行と云ふは此身に離るゝ事也。先つ若き衆は身を不惜、主君に奉公をなすが能き也。如是浅き処に身を捨習つて功を尽さは、如何様の処にも自由に捨てらるべし。身心にさへ離るれば成仏也。
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『驢鞍橋』卷上一日人来り、何を承りても覚ねぬに仍りて修行仕り得ずと云ふ。師聞て曰く、扨も能き事也。一物をも覚えぬを仏法と云ふ也。是れに仍りて覚えて置く事を嫌ひ捨て、只念仏を以て胸の中の塵ほこりを払捨て払捨てする事を勤めさする也。如是勤めて仏法世法共に忘れ果て、はらりつと手を打叩いた如くに成るを成仏と云ふ也。
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『驢鞍橋』卷上是れは只今其方の心の輪廻するを以て知るべし。善念頓て悪念に成り、悪心も亦善心に成る也。天道より地獄に往き、地獄より天道に往く証拠是れ也。余の悪道を廻る事も如是。此念を離れて不生不滅なるを成仏と云ふ也。如是我と念根を修し尽して、成仏すること也。何として傍より其方の念を休めんや。强く眼を着け、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と命を限りにひた責めに責めて、念根を可尽すべし。総じて大なる悪、及ばさる望は休む物也、されとも兎角なにか有る物也。念根の切尽す事難し。然る間此糞袋を敵にし、念仏を以て申滅すへし。是れ念根を切る修行也。彼者云、然らば此身を離る事と心得て置くべきや。師呵して曰く、心得て置くは悪き也。仏道と云ふは心得て置く事に非す、身心を修し尽す事也。
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『驢鞍橋』卷上文字にて云ふ事は悪敷事なれども、念仏を初心に思はるる間申すへし、念仏の二字は仏を思ふとかく也。常に仏を思ふ人有るへからず、皆娑婆思ひなるへし。娑婆を思ふ心は皆悪道の種也。今其方の心の悪道に輪廻するを以て知るべし。心の强き時も有り、弱き時も有り、嗔る時もあり、欲をかく時も有り、ねたみそねむ時もあり、如是悪道ずきにて、此中を廻りて、人間道にも居る事有るへからず。縦ひ亦天上の善果を得たりと云ふとも、頓て地獄に落つる也。其故は今善心少しの間、起れども、頓て悪心に成る也。兎角念根を切らずんば輪廻を免かるゝ事有るへからず。随分念仏して諸念を尽すべし。纔も念残れば、其念の世界に生を受くる也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、今時の人仏法は悟らねば用に立たぬと思ふ也。其儀に非す。仏法と云ふは、只今の我心をよう用ひて、今用に立つる事なり。成程心を强う用ゆるを修行とす、心の强うなるほど次第に使はるる也。大に勤むれば大に徳有り、少し勤むれば少しの徳有り、譬へば万石取には及はねども、千石取らば百石取には勝るが如し。分々に徳を得る事也。扨亦悟入すれば、仏境界なりと思へり。そでも無き事也。縦ひ見解有るとも自由に使はるべからず。仏境界と云ふは各別の事也。只悟を求めずとも、修し行じて徳に至るべしと也。