驢鞍橋 / 卷下
一日、去る人來り曰く何某は殊勝の僧にて、常に誦經計せらるゝ也。師聞て曰く、夫れても娑婆は大切なるべしと也。
新字:一日、去る人来り曰く何某は殊勝の僧にて、常に誦経計せらるゝ也。師聞て曰く、夫れても娑婆は大切なるべしと也。
書き下し
一日、去る人来り曰く何某は殊勝の僧にて、常に誦経計せらるゝ也。師聞て曰く、夫れても娑婆は大切なるべしと也。
現代語訳
ある日、ある人が来て言った。某は殊勝な僧で、いつも読経ばかりしておられます。師は聞いて言われた。それでも、この世は大切なのだろう、と。
解説
いつも読経ばかりしている立派な僧がいる、と聞いた正三は、それでもこの世の暮らしや身は大切にしているのだろう、と一言で返す。どれほど熱心に修行の形を続けていても、身体やこの世への執着が残っていれば本物ではない。行いの熱心さと、心が執着を離れているかどうかは別の問題だ、と。外から見える勤勉さで人を評価しがちな心に、静かに疑問を投げかける短い条である。
この章句が説くこと
形式読経執着評価本物娑婆
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