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臨済録 / 勘辨

師問樂普云:「從上來,一人行棒、一人行喝,阿那箇親?」普云:「總不親。」師云:「親處作麼生?」普便喝,師乃打。師見僧來,展開兩手,僧無語,師云:「會麼?」云:「不會。」師云:「渾崙擘不開,與爾兩文錢。」大覺到參,師舉起拂子,大覺敷坐具。師擲下拂子,大覺收坐具入僧堂。眾僧云:「這僧莫是和尚親故?不禮拜,又不喫棒。」師聞,令喚覺,覺出,師云:「大眾道汝未參長老。」覺云:「不審。」便自歸眾。

新字:師問楽普云:「従上来,一人行棒、一人行喝,阿那箇親?」普云:「総不親。」師云:「親処作麼生?」普便喝,師乃打。師見僧来,展開両手,僧無語,師云:「会麼?」云:「不会。」師云:「渾崙擘不開,与爾両文銭。」大覚到参,師舉起払子,大覚敷坐具。師擲下払子,大覚収坐具入僧堂。衆僧云:「這僧莫是和尚親故?不礼拝,又不喫棒。」師聞,令喚覚,覚出,師云:「大衆道汝未参長老。」覚云:「不審。」便自帰衆。

書き下し

師、楽普に問うて云く、「従上来、一人は棒を行じ、一人は喝を行ず、阿那箇(いずれ)か親しき。」普云く、「総に親しからず。」師云く、「親しき処作麼生。」普便ち喝す。師乃ち打つ。師、僧の来たるを見て、両手を展開す。僧無語。師云く、「会すや。」云く、「会せず。」師云く、「渾崙(こんろん)擘(つんざ)けども開けず、爾に両文銭を与えん。」大覚到り参ず。師、払子を挙起す。大覚、坐具を敷く。師、払子を擲下す。大覚、坐具を収めて僧堂に入る。衆僧云く、「這の僧は是れ和尚の親故なること莫きや。礼拝せず、又た棒を喫せず。」師聞いて、覚を喚ばしむ。覚出づ。師云く、「大衆道う、汝未だ長老に参ぜずと。」覚云く、「不審。」便ち自ら衆に帰る。

現代語訳

師が楽普に問うた。「昔から、一人は棒を使い、一人は喝を使ってきた。どちらが核心に近いか。」楽普「どちらも近くない。」師「では近いところはどうだ。」楽普はすぐに喝した。師はそこで打った。師は僧が来るのを見て両手を広げた。僧は黙っていた。師「わかるか。」僧「わからない。」師は言った。「まるごとの塊は引き裂いても開かない。おまえに銭二文をやろう。」大覚(だいかく、黄檗の門下の禅僧)が参じてきた。師が払子を立てると、大覚は坐具を広げた。師が払子を投げ捨てると、大覚は坐具を収めて僧堂に入った。僧たちは言った。「あの僧は和尚の旧知ではないか。礼拝もせず、棒も食らわない。」師はそれを聞いて大覚を呼ばせた。大覚が出てくると、師は言った。「皆が、おまえはまだ長老(わし)に参じていないと言っておる。」大覚は「ご機嫌よう」と挨拶し、そのまま自分から大衆の中へ戻った。

解説

「徳山の棒、臨済の喝」と並び称される二つの手段のどちらが親しいか、と臨済は自ら問う。楽普は「総に親しからず」と両方を退け、では親しい処はと問われると喝した。退けたはずの喝を使ったところを臨済は打つ。道具を論じる者はまだ道具の外にいる。両手を広げても通じない僧に「両文銭を与えん」と言うのは、渾然一体のものは言葉で割っても開かないという、憐れみ混じりの皮肉である。大覚との場面には一言もない。払子と坐具だけで挨拶を交わし、礼拝も棒もないのを大衆は訝るが、呼び出された大覚は「不審」とだけ言って去る。分かり合った者同士の間では手続きが消える。チームでも、形式の多さは信頼の薄さを表していることがある。

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