臨済録 / 示衆
設有者,皆是名言章句,接引小兒施設藥病,表顯名句。且名句不自名句,還是爾目前昭昭靈靈鑒覺聞知照燭底,安一切名句。大德!造五無間業方得解脫。」
新字:設有者,皆是名言章句,接引小児施設薬病,表顕名句。且名句不自名句,還是爾目前昭昭霊霊鑒覚聞知照燭底,安一切名句。大徳!造五無間業方得解脱。」
書き下し
設い有る者も、皆な是れ名言章句、小児を接引する施設の薬病、表顕の名句なり。且つ名句は自ら名句ならず、還って是れ爾が目前昭昭霊霊として鑒覚聞知照燭する底、一切の名句を安ず。大徳、五無間の業を造って方に解脱を得。」
現代語訳
(前の説法の続きである。)たとえ(仏や法が)あるとしても、それはみな名前や言葉や文章であり、子どもを導くために設けた、病に応じた薬であり、表向きに示した名前や言葉にすぎない。しかも名前や言葉は自分で名前や言葉になるのではない。やはりお前たちの目の前で、明々と霊妙に、見て感じ聞いて知り照らしているもの、それがあらゆる名前や言葉を置いているのだ。諸君、五無間の業(父殺し・母殺しなど無間地獄に落ちる五つの大罪)をつくって、はじめて解脱を得るのだ。」
解説
仏や法といっても、それは子どもを導くための方便の言葉にすぎないと臨済は言う。そして言葉は自分で言葉になるのではなく、目の前で明々とはたらいて見聞きしているもの、つまり今ここにいる人が言葉を置いているのだと続ける。最後の「五無間の業を造って方に解脱を得」は、父母を殺し仏身を傷つけるといった最大の罪をあえて持ち出す衝撃的な一句で、臨済はこの後、その罪を心の中の執着を断つことの比喩として説明していく。言葉の過激さに驚くより、何を断ち切れと言っているのかを読み取るべき箇所である。マニュアルや標語も同じで、それを使う人を離れて言葉だけが独り歩きすると、人を縛る道具に変わるのである。
関連する章句
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『臨済録』示衆問ふ、「如何なるか是れ五無間業」と。師云く、「父を殺し、母を害し、佛身より血を出だし、和合僧を破り、經像を焚燒する等、此れは是れ五無間業なり」と。云く、「如何なるか是れ父」と。師云く、「無明は是れ父なり。爾が一念心、起滅の處を求むるも得ず、響の空に應ずるが如く、隨處に無事なる、名づけて父を殺すと為す」と。云く、「如何なるか是れ母」と。師云く、「貪愛を母と為す。爾が一念心、欲界中に入りて其の貪愛を求むるも、唯だ諸法の空相を見て、處處に著する無き、名づけて母を害すと為す」と。云く、「如何なるか是れ佛身より血を出だす」と。師云く、「爾清淨法界中に向かって一念心も解を生ずる無ければ、便ち處處に黑暗なり。是れ佛身より血を出だすなり」と。云く、「如何なるか是れ和合僧を破る」と。師云く、「爾が一念心、正に煩惱結使に達すること、空の依る所無きが如くなる、是れ和合僧を破るなり」と。
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『臨済録』示衆道流、爾如法の見解を得んと欲せば、但だ人の惑を受くる莫かれ。裏に向かひ外に向かひ、逢著すれば便ち殺せ。佛に逢うては佛を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脫を得ん。物と拘はらず、透脫自在なり。諸方の學道流の如きは、未だ物に依らずして出で來る底有らず。山僧、此の間に向かって頭より打つ。手上より出で來れば手上に打ち、口裏より出で來れば口裏に打ち、眼裏より出で來れば眼裏に打つ。未だ一箇の獨脫して出で來る底有らず。皆な是れ他の古人の閑機境に上る。山僧一法の人に與ふる無し。秖だ是れ病を治し縛を解くのみ。爾諸方の道流、試みに物に依らずして出で來れ。我れ爾と共に商量せんことを要す。十年五歲並びに一人も無し。皆な是れ草に依り葉に附く竹木の精靈、野狐の精魅にして、一切の糞塊の上に向かって亂咬する瞎漢なり。枉げて他の十方の信施を消して、我は是れ出家兒なりと道ふ。是くの如きの見解を作す。爾に向かって道はん、『佛無く、法無く、修無く、證無し。秖だ與麼に傍家に擬して什麼物をか求めん』と。瞎漢、頭上に頭を安く。是れ爾に什麼をか欠少せる。
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『臨済録』示衆道流、山僧が説く處を取る莫かれ。何が故ぞ。説は憑據無ければなり。一期の間、虛空に圖畫す。彩畫の像等の喩の如し。道流、佛を將って究竟と為す莫かれ。我が見るには猶ほ廁孔の如し。菩薩・羅漢は盡く是れ枷鎖、人を縛る底の物なり。所以に文殊は劍を仗って瞿曇を殺し、鴦掘は刀を持って釋氏を害す。道流、佛の得べき無し。乃至三乘・五性・圓頓の教迹も皆な是れ一期の藥病相治にして、並びに實法無し。設ひ有るも、皆な是れ相似、表顯、路布、文字の差排にして、且く是くの如く説くのみ。
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『臨済録』示衆道流、佛法は用功の處無し。秖だ是れ平常無事、屙屎・送尿・著衣・喫飯、困じ來れば即ち臥す。愚人は我を笑ふも、智は乃ち焉れを知る。古人云く、『外に向かって工夫を作すは、總に是れ癡頑漢』と。爾且く隨處に主と作れば、立處皆な真にして、境來るも回換すること得ず。縱ひ從來の習氣、五無間の業有るも、自ら解脫の大海と為る。今時の學者は總て法を識らず、猶ほ觸鼻の羊の物に逢著すれば口裏に安くが如し。奴郎辨ぜず、賓主分かたず。是くの如きの流は邪心もて道に入る。鬧處には即ち入るを得ず、真の出家人と名づくるは、正に是れ真の俗家人なり。夫れ出家とは、須らく平常真正の見解を辨得すべし。佛を辨じ魔を辨じ、真を辨じ偽を辨じ、凡を辨じ聖を辨ず。若し是くの如く辨得せば、真の出家と名づく。若し魔と佛とを辨ぜずんば、正に是れ一家を出でて一家に入る、造業の眾生と喚ぶ。未だ真の出家と名づくるを得ず。
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『臨済録』示衆道流、切に真正の見解を求取して、天下に橫行し、這の一般の精魅に惑亂せらるるを免るるを要す。無事是れ貴人なり。但だ造作する莫かれ、秖だ是れ平常なれ。爾外に向かひ傍家に求めて脚手を覓めんと擬するは、錯り了れり。秖だ佛を求めんと擬するも、佛は是れ名句なり。爾還た馳求する底を識るや。三世十方の佛祖出で來るも也た秖だ法を求むるが為なり。如今參學の道流も也た秖だ法を求むるが為なり。法を得て始めて了る。未だ得ざれば依前として五道に輪回す。云何なるか是れ法。法とは是れ心法なり。心法は形無く、十方に通貫し、目前に現に用ゐらる。人信ずること及ばず、便ち乃ち名を認め句を認め、文字の中に向かって意度を求む。佛法とは天地懸殊なり。道流、山僧が説法は、什麼の法をか説く。心地の法を説く。便ち能く凡に入り聖に入り、淨に入り穢に入り、真に入り俗に入る。要且つ是れ爾が真俗凡聖にあらず。能く一切の真俗凡聖に名字を安著し、真俗凡聖は此の人に名字を安著すること得ず。道流、把得すれば便ち用ゐ、更に名字を著けざる、之を號して玄旨と為す。
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『臨済録』示衆唯だ法を聽く無依の道人有るのみ、是れ諸佛の母なり。所以に佛は無依より生ず。若し無依を悟らば、佛も亦た得る無し。若し是くの如く見得する者は、是れ真正の見解なり。學人了せざるは、名句に執するが為に、他の凡聖の名に礙へられ、所以に其の道眼を障へて分明なることを得ず。秖だ十二分教の如きは皆な是れ表顯の説なり。學者會せずして、便ち表顯の名句上に向かって解を生ず。皆な是れ依倚して因果に落在し、未だ三界の生死を免れず。爾若し生死去住脫著自由なるを得んと欲せば、即今聽法底の人を識取せよ。形無く、相無く、根無く、本無く、住處無し。活撥撥地として、應に是れ萬種の施設なるも、用ゐる處は秖だ是れ處無し。所以に覓め著くれば轉た遠く、之を求むれば轉た乖く。之を號して祕密と為す。道流、爾箇の夢幻の伴子を認め著くる莫かれ。遲晚の中間に便ち無常に歸せん。
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