臨済録 / 示衆
若萎萎隨隨地,則不得也。夫如[斯/瓦]嗄之器不堪貯醍醐。
新字:若萎萎随随地,則不得也。夫如[斯/瓦]嗄之器不堪貯醍醐。
書き下し
若し萎萎随随地ならば、則ち得ず。夫れ[斯/瓦](せい、ひびの入った意と推す)嗄の器の如きは、醍醐を貯うるに堪えず。
現代語訳
(前の説法の続きである。)ぐにゃぐにゃと人に従うばかりの有様では、得ることはできない。ひびの入った(欠字を「ひびの入った」の意と推す)器には、醍醐(だいご、乳を精製した最上の味、最上の教えのたとえ)を蓄えることはできないのだ。
解説
説法の途中の短い一節で、器のたとえが用いられている。ぐにゃぐにゃと他人に従うばかりの者は何も得られない。ひびの入った器に醍醐を注いでも漏れてしまうように、主体の定まらない者には最上の教えも蓄えられない、という意味である。醍醐は牛乳を精製してできる最上の味で、仏教では最高の教えのたとえとして使われる。臨済は、教えの側より受け手の器、すなわち自分を信じて立つ主体の確かさを問題にする。どれほど優れた研修や助言を与えられても、受け取る側に芯がなければ身につかない。学ぶ前に、自分の器にひびが入っていないかを確かめることが先である。
関連する章句
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『臨済録』示衆何を以てか此の如くなる。秖だ我が見処別なるが為に、外、凡聖を取らず、内、根本に住せず、見徹して更に疑謬せず。」師、衆に示して云く、
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『臨済録』示衆如し大器なる者は、直だ人の惑を受けざらんことを要す。隨處に主と作れば、立處皆な真なり。但だ來る者有るも皆な受くるを得ざれ。爾一念疑へば即ち魔心に入る。菩薩の疑ふ時、生死の魔便を得るが如し。但だ能く念を息めて、更に外に求むる莫かれ。物來れば則ち照らせ。爾但だ現今の用底を信ぜよ、一箇の事も無し。爾が一念心、三界を生じ、緣に隨ひ境に被はれて分かれて六塵と為る。儞如今の應用の處、什麼をか欠少せる。一剎那の間に便ち淨に入り穢に入り、彌勒の樓閣に入り、三眼の國土に入り、處處に遊履するも、唯だ空名を見るのみ。
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『臨済録』示衆諸方の学人来たるが如きは、山僧此の間に三種の根器を作して断ず。如し中下の根器来たらば、我れ便ち其の境を奪って、其の法を除かず。或いは中上の根器来たらば、我れ便ち境法倶に奪う。如し上上の根器来たらば、我れ便ち境法人倶に奪わず。如し出格の見解の人有って来たらば、山僧此の間には便ち全体作用して根器を歴ず。「大徳、這裏に到っては、学人の力を著くる処、風を通ぜず、石火電光も即ち過ぎ了れり。学人若し眼定動せば、即ち交渉没し。心を擬すれば即ち差い、念を動ずれば即ち乖く。人の解する者有らば、目前を離れず。大徳、爾鉢嚢屎担子を担って、傍家に走って仏を求め法を求む。即今与麼に馳求する底、爾還って渠を識るや。活撥撥地にして、秖だ是れ根株勿し。擁すれども聚まらず、撥すれども散ぜず。求著すれば即ち転た遠く、求めざれば還って目前に在り。霊音耳に属す。若し人信ぜずんば、徒らに百年を労せん。
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『臨済録』示衆如今道を學ぶ人は且く自ら信ずるを要す。外に向かって覓むる莫かれ。總て他の閑塵境に上りて、都て邪正を辨ぜず。秖だ祖有り佛有るが如きは、皆な是れ教迹中の事なり。人有りて一句子の語を拈起し、或いは隱顯の中より出づれば、便ち即ち疑ひ生じ、天を照らし地を照らし、傍家に尋ね問ふ、也た大いに忙然たり。大丈夫兒、秖麼に主を論じ賊を論じ、是を論じ非を論じ、色を論じ財を論じ、閑話を論説して日を過ごす莫かれ。山僧此の間、僧俗を論ぜず、但だ來る者有れば盡く伊を識得す。伊が甚の處に向かって出で來るに任すも、但だ聲名文句有るは、皆な是れ夢幻なり。却つて境に乘ずる底の人を見るは是れ諸佛の玄旨なり。佛境は自ら我は是れ佛境なりと稱すること能はず。還た是れ這箇の無依の道人、境に乘じて出で來る。若し人有りて出で來りて我に佛を求むれば、我れ即ち清淨の境に應じて出づ。人有りて我に菩薩を問へば、我れ即ち慈悲の境に應じて出づ。人有りて我に菩提を問へば、我れ即ち淨妙の境に應じて出づ。人有りて我に涅槃を問へば、我れ即ち寂靜の境に應じて出づ。境は即ち萬般差別なるも、人は即ち別ならず。所以に物に應じて形を現ずること、水中の月の如し。道流、爾若し如法なるを得んと欲せば、直だ須らく是れ大丈夫兒にして始めて得べし。
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『臨済録』示衆爾が一念心、秖だ空拳指上に向かって実解を生じ、根境法中に虚しく揑怪し、自ら軽んじて退屈して言う、『我れは是れ凡夫、他は是れ聖人。』禿屢生、甚の死急か有る。他の師子の皮を披て、却って野干の鳴を作す。大丈夫漢、丈夫の気息を作さず、自家屋裏の物を肯えて信ぜず、秖麼に外に向かって覓め、他の古人の閑名句に上り、陰に倚り陽に博し、特達すること能わず。境に逢うては便ち縁じ、塵に逢うては便ち執し、触処に惑い起こって、自ら准定無し。
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『臨済録』示衆道流、大丈夫漢、更に箇の什麼をか疑はん。目前の用處、更に是れ阿誰か把得して便ち用ゐん。名字に著する莫かれ、號して玄旨と為す。與麼に見得すれば嫌ふ底の法勿し。古人云く、『心は萬境に隨って轉ず、轉ずる處實に能く幽なり。流れに隨って性を認得すれば、喜び無く亦た憂ひ無し』と。道流、禪宗の見解の如きは死活循然たり。參學の人、大いに須らく子細なるべし。主客相見の如きは便ち言論の往來有り。或いは物に應じて形を現じ、或いは全體に作用し、或いは機權を把って喜怒し、或いは半身を現じ、或いは師子に乘り、或いは象王に乘る。如し真正の學人有れば便ち喝して、先づ一箇の膠盆子を拈出す。善知識是れ境なるを辨ぜずして、便ち他の境上に上りて模を作し樣を作す。學人便ち喝すれば、前人肯へて放たず。此れは是れ膏肓の病、醫するに堪へず、喚んで客、主を看ると作す。或いは是れ善知識、物を拈出せずして、學人の問處に隨って即ち奪ふ。學人奪はれて死に抵るまで放たず、此れは是れ主、客を看るなり。
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