臨済録 / 示衆
如今學道人且要自信,莫向外覓,總上他閑塵境,都不辨邪正。秖如有祖、有佛,皆是教迹中事。有人拈起一句子語,或隱顯中出,便即疑生,照天、照地,傍家尋問,也大忙然。大丈夫兒莫秖麼論主、論賊,論是、論非,論色、論財,論說閑話過日。山僧此間不論僧俗,但有來者盡識得伊,任伊向甚處出來,但有聲名文句,皆是夢幻。却見乘境底人是諸佛之玄旨,佛境不能自稱我是佛境,還是這箇無依道人乘境出來。若有人出來問我求佛,我即應清淨境出;有人問我菩薩,我即應慈悲境出;有人問我菩提,我即應淨妙境出;有人問我涅槃,我即應寂靜境出。境即萬般差別,人即不別,所以應物現形,如水中月。道流!爾若欲得如法,直須是大丈夫兒始得。
新字:如今学道人且要自信,莫向外覓,総上他閑塵境,都不弁邪正。秖如有祖、有仏,皆是教迹中事。有人拈起一句子語,或隠顕中出,便即疑生,照天、照地,傍家尋問,也大忙然。大丈夫児莫秖麼論主、論賊,論是、論非,論色、論財,論説閑話過日。山僧此間不論僧俗,但有来者尽識得伊,任伊向甚処出来,但有声名文句,皆是夢幻。却見乗境底人是諸仏之玄旨,仏境不能自称我是仏境,還是這箇無依道人乗境出来。若有人出来問我求仏,我即応清浄境出;有人問我菩薩,我即応慈悲境出;有人問我菩提,我即応浄妙境出;有人問我涅槃,我即応寂静境出。境即万般差別,人即不別,所以応物現形,如水中月。道流!爾若欲得如法,直須是大丈夫児始得。
書き下し
如今道を學ぶ人は且く自ら信ずるを要す。外に向かって覓むる莫かれ。總て他の閑塵境に上りて、都て邪正を辨ぜず。秖だ祖有り佛有るが如きは、皆な是れ教迹中の事なり。人有りて一句子の語を拈起し、或いは隱顯の中より出づれば、便ち即ち疑ひ生じ、天を照らし地を照らし、傍家に尋ね問ふ、也た大いに忙然たり。大丈夫兒、秖麼に主を論じ賊を論じ、是を論じ非を論じ、色を論じ財を論じ、閑話を論説して日を過ごす莫かれ。山僧此の間、僧俗を論ぜず、但だ來る者有れば盡く伊を識得す。伊が甚の處に向かって出で來るに任すも、但だ聲名文句有るは、皆な是れ夢幻なり。却つて境に乘ずる底の人を見るは是れ諸佛の玄旨なり。佛境は自ら我は是れ佛境なりと稱すること能はず。還た是れ這箇の無依の道人、境に乘じて出で來る。若し人有りて出で來りて我に佛を求むれば、我れ即ち清淨の境に應じて出づ。人有りて我に菩薩を問へば、我れ即ち慈悲の境に應じて出づ。人有りて我に菩提を問へば、我れ即ち淨妙の境に應じて出づ。人有りて我に涅槃を問へば、我れ即ち寂靜の境に應じて出づ。境は即ち萬般差別なるも、人は即ち別ならず。所以に物に應じて形を現ずること、水中の月の如し。道流、爾若し如法なるを得んと欲せば、直だ須らく是れ大丈夫兒にして始めて得べし。
現代語訳
いま道を学ぶ人は、まず自分を信じることが肝要だ。外に向かって探すな。みな他人のつまらぬ塵の境に乗せられて、まるで邪と正を見分けない。祖があり仏があるというのも、みな教えの跡の中のことだ。誰かが一句を持ち出し、あるいは隠れたところ現れたところから出てくると、たちまち疑いが生じ、天を照らし地を照らし、あちこちに尋ね回る。まったくもってあわてふためいている。大丈夫たる者、そんなふうに主だ賊だ、是だ非だ、色だ財だと、むだ話をして日を送るな。わしのところでは、僧か俗かを問わず、来る者があればことごとくその者を見抜く。どこから出てこようと任せておくが、名声や文句を伴うものはみな夢まぼろしだ。むしろ、境に乗っている当の人を見る、それが諸仏の奥義である。仏の境涯が自分から「わたしは仏の境涯だ」と名のることはできない。やはりこの、何にも依らない道人が、境に乗って出てくるのだ。もし誰かが来てわしに仏を求めれば、わしは清らかな境に応じて出る。菩薩を問えば慈悲の境に応じて出る。菩提を問えば浄妙の境に応じて出る。涅槃を問えば寂静の境に応じて出る。境は万別に異なるが、人のほうは異ならない。だから物に応じて形を現すこと、水に映る月のようなものだ。道流よ、おまえがもし如法でありたいなら、まさに大丈夫でなければならない。
解説
この章句が説くこと
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『臨済録』示衆是れ爾が目前歴歴底、一箇の形段勿くして孤明なる、是れ這箇、説法聴法を解す。若し是の如く見得せば、便ち祖仏と別ならず。但だ一切時中、更に間断すること莫かれ。触目皆な是なり。秖だ情生ずれば智隔たり、想変ずれば体殊なるが為に、所以に三界に輪回して種種の苦を受く。若し山僧が見処に約せば、甚深ならざる無く、解脱せざる無し。道流、心法は形無くして、十方に通貫す。眼に在っては見と曰い、耳に在っては聞と曰い、鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉し、足に在っては運奔す。本と是れ一精明、分かれて六和合と為る。一心既に無なれば、随処に解脱す。山僧与麼に説く、意、什麼の処にか在る。秖だ道流が一切馳求して、心歇むこと能わず、他の古人の閑機境に上るが為なり。道流、山僧が見処を取らば、報化仏の頭を坐断し、十地満心も猶お客作児の如く、等妙二覚は枷を担い鎖を帯ぶる漢、羅漢辟支は猶お廁穢の如く、菩提涅槃は驢を繋ぐ橛の如し。何を以てか此の如くなる。秖だ道流が三祇劫の空なることに達せざるが為に、所以に此の障礙有り。若し是れ真正の道人ならば、終に是の如くならず。但だ能く縁に随って旧業を消し、任運に衣裳を著け、行かんと要すれば即ち行き、坐せんと要すれば即ち坐し、一念心も仏果を希求すること無し。何に縁ってか此の如くなる。古人云く、『若し業を作して仏を求めんと欲せば、仏は是れ生死の大兆なり。』大徳、時光惜しむべし。秖だ傍家に波波地に禅を学び道を学び、名を認め句を認め、仏を求め祖を求め善知識を求めて意度せんと擬す。錯ること莫かれ。道流、爾秖だ一箇の父母有り、更に何物をか求めん。爾自ら返照し看よ。古人云く、『演若達多、頭を失却す。求心歇む処、即ち無事。』大徳、且く平常なることを要す、模様を作すこと莫かれ。一般の好悪を識らざる禿奴有り、便即ち神を見、鬼を見、東を指し西を劃し、晴を好み雨を好む。是の如きの流は尽く須らく債を抵し、閻老の前に向かって熱鉄丸を呑む日有るべし。好人家の男女、這の一般の野狐精魅に著けられて、便即ち揑怪す。瞎屢生、飯銭を索めらるる日有らん。」師、衆に示して云く、
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『臨済録』示衆爾若し自ら信不及ならば、即便ち忙忙地に一切の境に徇って転じ、他の万境に回換せられて、自由を得ず。爾若し能く念念馳求の心を歇得せば、便ち祖仏と別ならず。爾、祖仏を識らんと欲得すや。秖だ爾が面前聴法底、是れなり。学人信不及にして、便ち外に向かって馳求す。設い求め得る者も、皆な是れ文字の勝相にして、終に他の活祖意を得ず。錯ること莫かれ、諸禅徳。此の時遇わずんば、万劫千生、三界に輪回し、好境に徇って掇し去り、驢牛の肚裏に生ぜん。道流、山僧が見処に約せば、釈迦と別ならず。今日多般の用処、什麼をか欠少す。六道の神光、未だ曾て間歇せず。若し能く是の如く見得せば、秖だ是れ一生無事の人なり。大徳、三界は安きこと無し、猶お火宅の如し。此れは是れ爾が久しく停住する処にあらず。無常の殺鬼は一刹那の間に、貴賤老少を揀ばず。爾、祖仏と別ならざらんと要せば、但だ外に求むること莫かれ。爾が一念心上の清浄の光は、是れ爾が屋裏の法身仏なり。爾が一念心上の無分別の光は、是れ爾が屋裏の報身仏なり。爾が一念心上の無差別の光は、是れ爾が屋裏の化身仏なり。此の三種の身は、是れ爾が即今目前聴法底の人なり。秖だ外に向かって馳求せざるが為に、此の功用有り。経論家に拠らば、三種の身を取って極則と為す。山僧が見処に約せば然らず。此の三種の身は是れ名言なり、亦た是れ三種の依なり。古人云く、『身は義に依って立し、土は体に拠って論ず。』法性の身、法性の土、明らかに知んぬ、是れ光影なることを。大徳、爾且く光影を弄する底の人を識取せよ。是れ諸仏の本源、一切処是れ道流が帰舎の処なり。是れ爾が四大の色身は説法聴法を解せず、脾胃肝胆は説法聴法を解せず、虚空は説法聴法を解せず。是れ什麼か説法聴法を解する。
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『臨済録』示衆道流、真佛は形無く、真法は相無し。爾秖麼に幻化の上頭に模を作し樣を作す。設ひ求め得る者も、皆な是れ野狐精魅にして、並びに是れ真佛にあらず、是れ外道の見解なり。夫れ真の學道人の如きは、並びに佛を取らず、菩薩・羅漢を取らず、三界の殊勝を取らず、逈かに獨脫無くして物と拘はらず。乾坤倒覆するも我れ更に疑はず。十方の諸佛現前するも一念の心喜ぶこと無く、三塗地獄頓かに現ずるも一念の心怖るること無し。緣何ぞ此くの如き。我れ諸法の空相を見るに、變ずれば即ち有り、變ぜざれば即ち無し。三界は唯だ心、萬法は唯だ識なり。所以に夢幻空花、何ぞ把捉するを勞せん。唯だ道流の目前現今に法を聽く底の人有るのみ。火に入るも燒けず、水に入るも溺れず、三塗地獄に入るも園觀に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入るも報を受けず。緣何ぞ此くの如き。嫌ふ底の法無ければなり。爾若し聖を愛し凡を憎まば、生死海裏に沈浮せん。煩惱は心に由るが故に有り。無心なれば煩惱何ぞ拘へん。分別して相を取るを勞せずんば、自然に道を得ること須臾ならん。
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『臨済録』示衆道流、切に真正の見解を求取して、天下に橫行し、這の一般の精魅に惑亂せらるるを免るるを要す。無事是れ貴人なり。但だ造作する莫かれ、秖だ是れ平常なれ。爾外に向かひ傍家に求めて脚手を覓めんと擬するは、錯り了れり。秖だ佛を求めんと擬するも、佛は是れ名句なり。爾還た馳求する底を識るや。三世十方の佛祖出で來るも也た秖だ法を求むるが為なり。如今參學の道流も也た秖だ法を求むるが為なり。法を得て始めて了る。未だ得ざれば依前として五道に輪回す。云何なるか是れ法。法とは是れ心法なり。心法は形無く、十方に通貫し、目前に現に用ゐらる。人信ずること及ばず、便ち乃ち名を認め句を認め、文字の中に向かって意度を求む。佛法とは天地懸殊なり。道流、山僧が説法は、什麼の法をか説く。心地の法を説く。便ち能く凡に入り聖に入り、淨に入り穢に入り、真に入り俗に入る。要且つ是れ爾が真俗凡聖にあらず。能く一切の真俗凡聖に名字を安著し、真俗凡聖は此の人に名字を安著すること得ず。道流、把得すれば便ち用ゐ、更に名字を著けざる、之を號して玄旨と為す。
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『臨済録』示衆夫れ至理の道の如きは、諍論して激揚を求め、鏗鏘として以て外道を摧くにあらず。佛祖相承に至っては更に別意無し。設ひ言教有るも、化儀の三乘・五性・人天因果に落在す。圓頓の教の如きは、又た且く然らず。童子善財も皆な過を求めず。大德、錯りて心を用ゐる莫かれ。大海の死屍を停めざるが如し。秖麼に擔却して天下を走らんと擬し、自ら見障を起こして以て心を礙ふ。日上に雲無く、麗天普く照らす。眼中に翳無く、空裏に花無し。道流、爾如法なるを得んと欲せば、但だ疑を生ずる莫かれ。展ぶれば則ち法界に彌綸し、收むれば則ち絲髮も立たず。歷歷孤明にして未だ嘗て欠少せず。眼に見えず、耳に聞こえず、喚んで什麼物と作す。古人云く、『一物に似たりと説くも則ち中らず』と。爾但だ自家に看よ、更に什麼か有らん。説くも亦た盡くる無し。各自著力せよ。珍重。
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『臨済録』示衆唯だ法を聽く無依の道人有るのみ、是れ諸佛の母なり。所以に佛は無依より生ず。若し無依を悟らば、佛も亦た得る無し。若し是くの如く見得する者は、是れ真正の見解なり。學人了せざるは、名句に執するが為に、他の凡聖の名に礙へられ、所以に其の道眼を障へて分明なることを得ず。秖だ十二分教の如きは皆な是れ表顯の説なり。學者會せずして、便ち表顯の名句上に向かって解を生ず。皆な是れ依倚して因果に落在し、未だ三界の生死を免れず。爾若し生死去住脫著自由なるを得んと欲せば、即今聽法底の人を識取せよ。形無く、相無く、根無く、本無く、住處無し。活撥撥地として、應に是れ萬種の施設なるも、用ゐる處は秖だ是れ處無し。所以に覓め著くれば轉た遠く、之を求むれば轉た乖く。之を號して祕密と為す。道流、爾箇の夢幻の伴子を認め著くる莫かれ。遲晚の中間に便ち無常に歸せん。
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