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臨済録 / 示衆

如大器者,直要不受人惑,隨處作主,立處皆真,但有來者皆不得受。爾一念疑即魔入心,如菩薩疑時,生死魔得便。但能息念,更莫外求,物來則照。爾但信現今用底,一箇事也無。爾一念心生三界,隨緣被境分為六塵。儞如今應用處欠少什麼?一剎那間便入淨、入穢,入彌勒樓閣、入三眼國土,處處遊履,唯見空名。」

新字:如大器者,直要不受人惑,随処作主,立処皆真,但有来者皆不得受。爾一念疑即魔入心,如菩薩疑時,生死魔得便。但能息念,更莫外求,物来則照。爾但信現今用底,一箇事也無。爾一念心生三界,随縁被境分為六塵。儞如今応用処欠少什麼?一剎那間便入浄、入穢,入弥勒楼閣、入三眼国土,処処遊履,唯見空名。」

書き下し

如し大器なる者は、直だ人の惑を受けざらんことを要す。隨處に主と作れば、立處皆な真なり。但だ來る者有るも皆な受くるを得ざれ。爾一念疑へば即ち魔心に入る。菩薩の疑ふ時、生死の魔便を得るが如し。但だ能く念を息めて、更に外に求むる莫かれ。物來れば則ち照らせ。爾但だ現今の用底を信ぜよ、一箇の事も無し。爾が一念心、三界を生じ、緣に隨ひ境に被はれて分かれて六塵と為る。儞如今の應用の處、什麼をか欠少せる。一剎那の間に便ち淨に入り穢に入り、彌勒の樓閣に入り、三眼の國土に入り、處處に遊履するも、唯だ空名を見るのみ。

現代語訳

もし大きな器の者なら、ただ他人の惑わしを受けないことが肝要だ。どこにいてもそこで主となれば、立っている場所がそのまま真である。何が来ようと、みな受け取ってはならない。おまえが一念疑えば、そこで魔が心に入る。菩薩が疑うとき、生死の魔がつけ入るのと同じだ。ただ思いをやめて、それ以上外に求めるな。物が来たら照らせばよい。おまえはただ、いま現にはたらいているものを信じよ、それで何事もない。おまえの一念の心が三界を生じ、縁にしたがい境に覆われて分かれて六塵となる。おまえがいまはたらかせているところに、何が足りないのか。一刹那のうちに浄らかにも穢れにも入り、弥勒の楼閣に入り、三眼の国土に入り、いたるところを巡っても、見えるのはただ空しい名前だけだ。

解説

『臨済録』でおそらく最も広く知られ、日本でも軸に掛けられてきた「隨處に主と作れば、立處皆な真」が出る。どこにいてもそこで主であれば、立っている場所がそのまま真になる。場所を選ぶ話でも、環境を整える話でもない。直前に条件が置かれているのを見落とせない——「直だ人の惑を受けざらんことを要す」。主になるとは、他人の惑わしを受けないことである。だから続けて「但だ來る者有るも皆な受くるを得ざれ」と念を押す。来たものを片端から受け取っていたら、主にはなれない。そして疑いの扱いが具体的だ。「爾一念疑へば即ち魔心に入る」。疑いをどう解決するかではなく、「但だ能く念を息めて、更に外に求むる莫かれ。物來れば則ち照らせ」。止めて、来たものはただ照らす。取り込まず、追い払わず、映すだけである。締めの問いが効く。「儞如今の應用の處、什麼をか欠少せる」——いまはたらいているそこに、何が足りないのか。

この章句が説くこと

随処作主立処皆真莫受人惑物来則照欠少什麼

この一句を、あなたの毎日に。

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