臨済録 / 示衆
師晚參示眾云:
新字:師晩参示衆云:
書き下し
師、晩参に衆に示して云く、
現代語訳
師は夕方の参問の時に、修行僧たちに示して言った。
解説
ここから示衆の部が始まる。示衆とは、師が修行僧の集まりに向けて法を説き示すことで、上堂よりも講義に近い長い語りになることが多い。晩参は夕方の参問の時刻を指し、一日の修行を終えた僧たちに向けて臨済が語りかける。『臨済録』の中心をなすのはこの示衆の部であり、「無位の真人」「随処に主と作れば立処皆な真なり」「仏に逢うては仏を殺せ」といった言葉もここに現れる。いずれも、外に仏や祖師を求めず、いまここで話を聞いている自分自身を信じよ、という一点に収束していく。一日の終わりに自分を振り返る時間を持つことは、禅院に限らず、働く者にとっても大切な習慣である。
関連する章句
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『臨済録』示衆師、衆に示して云く、
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『臨済録』示衆何を以てか此の如くなる。秖だ我が見処別なるが為に、外、凡聖を取らず、内、根本に住せず、見徹して更に疑謬せず。」師、衆に示して云く、
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『臨済録』示衆道流、爾如法の見解を得んと欲せば、但だ人の惑を受くる莫かれ。裏に向かひ外に向かひ、逢著すれば便ち殺せ。佛に逢うては佛を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脫を得ん。物と拘はらず、透脫自在なり。諸方の學道流の如きは、未だ物に依らずして出で來る底有らず。山僧、此の間に向かって頭より打つ。手上より出で來れば手上に打ち、口裏より出で來れば口裏に打ち、眼裏より出で來れば眼裏に打つ。未だ一箇の獨脫して出で來る底有らず。皆な是れ他の古人の閑機境に上る。山僧一法の人に與ふる無し。秖だ是れ病を治し縛を解くのみ。爾諸方の道流、試みに物に依らずして出で來れ。我れ爾と共に商量せんことを要す。十年五歲並びに一人も無し。皆な是れ草に依り葉に附く竹木の精靈、野狐の精魅にして、一切の糞塊の上に向かって亂咬する瞎漢なり。枉げて他の十方の信施を消して、我は是れ出家兒なりと道ふ。是くの如きの見解を作す。爾に向かって道はん、『佛無く、法無く、修無く、證無し。秖だ與麼に傍家に擬して什麼物をか求めん』と。瞎漢、頭上に頭を安く。是れ爾に什麼をか欠少せる。
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『臨済録』示衆道流、佛法は用功の處無し。秖だ是れ平常無事、屙屎・送尿・著衣・喫飯、困じ來れば即ち臥す。愚人は我を笑ふも、智は乃ち焉れを知る。古人云く、『外に向かって工夫を作すは、總に是れ癡頑漢』と。爾且く隨處に主と作れば、立處皆な真にして、境來るも回換すること得ず。縱ひ從來の習氣、五無間の業有るも、自ら解脫の大海と為る。今時の學者は總て法を識らず、猶ほ觸鼻の羊の物に逢著すれば口裏に安くが如し。奴郎辨ぜず、賓主分かたず。是くの如きの流は邪心もて道に入る。鬧處には即ち入るを得ず、真の出家人と名づくるは、正に是れ真の俗家人なり。夫れ出家とは、須らく平常真正の見解を辨得すべし。佛を辨じ魔を辨じ、真を辨じ偽を辨じ、凡を辨じ聖を辨ず。若し是くの如く辨得せば、真の出家と名づく。若し魔と佛とを辨ぜずんば、正に是れ一家を出でて一家に入る、造業の眾生と喚ぶ。未だ真の出家と名づくるを得ず。
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『臨済録』示衆如今道を學ぶ人は且く自ら信ずるを要す。外に向かって覓むる莫かれ。總て他の閑塵境に上りて、都て邪正を辨ぜず。秖だ祖有り佛有るが如きは、皆な是れ教迹中の事なり。人有りて一句子の語を拈起し、或いは隱顯の中より出づれば、便ち即ち疑ひ生じ、天を照らし地を照らし、傍家に尋ね問ふ、也た大いに忙然たり。大丈夫兒、秖麼に主を論じ賊を論じ、是を論じ非を論じ、色を論じ財を論じ、閑話を論説して日を過ごす莫かれ。山僧此の間、僧俗を論ぜず、但だ來る者有れば盡く伊を識得す。伊が甚の處に向かって出で來るに任すも、但だ聲名文句有るは、皆な是れ夢幻なり。却つて境に乘ずる底の人を見るは是れ諸佛の玄旨なり。佛境は自ら我は是れ佛境なりと稱すること能はず。還た是れ這箇の無依の道人、境に乘じて出で來る。若し人有りて出で來りて我に佛を求むれば、我れ即ち清淨の境に應じて出づ。人有りて我に菩薩を問へば、我れ即ち慈悲の境に應じて出づ。人有りて我に菩提を問へば、我れ即ち淨妙の境に應じて出づ。人有りて我に涅槃を問へば、我れ即ち寂靜の境に應じて出づ。境は即ち萬般差別なるも、人は即ち別ならず。所以に物に應じて形を現ずること、水中の月の如し。道流、爾若し如法なるを得んと欲せば、直だ須らく是れ大丈夫兒にして始めて得べし。
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『臨済録』示衆道流、切に真正の見解を求取して、天下に橫行し、這の一般の精魅に惑亂せらるるを免るるを要す。無事是れ貴人なり。但だ造作する莫かれ、秖だ是れ平常なれ。爾外に向かひ傍家に求めて脚手を覓めんと擬するは、錯り了れり。秖だ佛を求めんと擬するも、佛は是れ名句なり。爾還た馳求する底を識るや。三世十方の佛祖出で來るも也た秖だ法を求むるが為なり。如今參學の道流も也た秖だ法を求むるが為なり。法を得て始めて了る。未だ得ざれば依前として五道に輪回す。云何なるか是れ法。法とは是れ心法なり。心法は形無く、十方に通貫し、目前に現に用ゐらる。人信ずること及ばず、便ち乃ち名を認め句を認め、文字の中に向かって意度を求む。佛法とは天地懸殊なり。道流、山僧が説法は、什麼の法をか説く。心地の法を説く。便ち能く凡に入り聖に入り、淨に入り穢に入り、真に入り俗に入る。要且つ是れ爾が真俗凡聖にあらず。能く一切の真俗凡聖に名字を安著し、真俗凡聖は此の人に名字を安著すること得ず。道流、把得すれば便ち用ゐ、更に名字を著けざる、之を號して玄旨と為す。
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