臨済録 / 示衆
何以如此?秖為我見處別,外不取凡聖、內不住根本,見徹更不疑謬。」師示眾云:
新字:何以如此?秖為我見処別,外不取凡聖、内不住根本,見徹更不疑謬。」師示衆云:
書き下し
何を以てか此の如くなる。秖だ我が見処別なるが為に、外、凡聖を取らず、内、根本に住せず、見徹して更に疑謬せず。」師、衆に示して云く、
現代語訳
(前の説法の続きである。)どうしてそうなのか。ただわたしの見方が違うからだ。外に向かっては凡夫だの聖人だのを取り立てず、内に向かっては根本なるものにとどまらず、見通しきって、もう疑ったり誤ったりしない。」師は修行僧たちに示して言った。
解説
説法の結びの短い一節である。臨済は自分がなぜ揺るがないのかを、見方が違うからだと説明する。外には凡夫と聖人という区別を立てず、内には心の根本といった拠りどころにもとどまらない。外の権威に頼らないだけでなく、内なる本心という観念にさえ寄りかからない点に臨済の徹底がある。自分探しの末に見つけた「本当の自分」もまた、握りしめれば新たな執着になるからである。見通しきった者は、もう迷いも誤りもしない。組織でいえば、上の評価にも、自分の成功体験にも寄りかからずに判断する姿勢であり、外と内の両方の拠りどころから自由であってこそ、状況に即した判断ができるのである。
関連する章句
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『臨済録』示衆爾が一念心、秖だ空拳指上に向かって実解を生じ、根境法中に虚しく揑怪し、自ら軽んじて退屈して言う、『我れは是れ凡夫、他は是れ聖人。』禿屢生、甚の死急か有る。他の師子の皮を披て、却って野干の鳴を作す。大丈夫漢、丈夫の気息を作さず、自家屋裏の物を肯えて信ぜず、秖麼に外に向かって覓め、他の古人の閑名句に上り、陰に倚り陽に博し、特達すること能わず。境に逢うては便ち縁じ、塵に逢うては便ち執し、触処に惑い起こって、自ら准定無し。
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『臨済録』示衆如今道を學ぶ人は且く自ら信ずるを要す。外に向かって覓むる莫かれ。總て他の閑塵境に上りて、都て邪正を辨ぜず。秖だ祖有り佛有るが如きは、皆な是れ教迹中の事なり。人有りて一句子の語を拈起し、或いは隱顯の中より出づれば、便ち即ち疑ひ生じ、天を照らし地を照らし、傍家に尋ね問ふ、也た大いに忙然たり。大丈夫兒、秖麼に主を論じ賊を論じ、是を論じ非を論じ、色を論じ財を論じ、閑話を論説して日を過ごす莫かれ。山僧此の間、僧俗を論ぜず、但だ來る者有れば盡く伊を識得す。伊が甚の處に向かって出で來るに任すも、但だ聲名文句有るは、皆な是れ夢幻なり。却つて境に乘ずる底の人を見るは是れ諸佛の玄旨なり。佛境は自ら我は是れ佛境なりと稱すること能はず。還た是れ這箇の無依の道人、境に乘じて出で來る。若し人有りて出で來りて我に佛を求むれば、我れ即ち清淨の境に應じて出づ。人有りて我に菩薩を問へば、我れ即ち慈悲の境に應じて出づ。人有りて我に菩提を問へば、我れ即ち淨妙の境に應じて出づ。人有りて我に涅槃を問へば、我れ即ち寂靜の境に應じて出づ。境は即ち萬般差別なるも、人は即ち別ならず。所以に物に應じて形を現ずること、水中の月の如し。道流、爾若し如法なるを得んと欲せば、直だ須らく是れ大丈夫兒にして始めて得べし。
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『臨済録』示衆如し大器なる者は、直だ人の惑を受けざらんことを要す。隨處に主と作れば、立處皆な真なり。但だ來る者有るも皆な受くるを得ざれ。爾一念疑へば即ち魔心に入る。菩薩の疑ふ時、生死の魔便を得るが如し。但だ能く念を息めて、更に外に求むる莫かれ。物來れば則ち照らせ。爾但だ現今の用底を信ぜよ、一箇の事も無し。爾が一念心、三界を生じ、緣に隨ひ境に被はれて分かれて六塵と為る。儞如今の應用の處、什麼をか欠少せる。一剎那の間に便ち淨に入り穢に入り、彌勒の樓閣に入り、三眼の國土に入り、處處に遊履するも、唯だ空名を見るのみ。
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『臨済録』示衆師、晩参に衆に示して云く、
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『臨済録』示衆道流、切に真正の見解を求取して、天下に橫行し、這の一般の精魅に惑亂せらるるを免るるを要す。無事是れ貴人なり。但だ造作する莫かれ、秖だ是れ平常なれ。爾外に向かひ傍家に求めて脚手を覓めんと擬するは、錯り了れり。秖だ佛を求めんと擬するも、佛は是れ名句なり。爾還た馳求する底を識るや。三世十方の佛祖出で來るも也た秖だ法を求むるが為なり。如今參學の道流も也た秖だ法を求むるが為なり。法を得て始めて了る。未だ得ざれば依前として五道に輪回す。云何なるか是れ法。法とは是れ心法なり。心法は形無く、十方に通貫し、目前に現に用ゐらる。人信ずること及ばず、便ち乃ち名を認め句を認め、文字の中に向かって意度を求む。佛法とは天地懸殊なり。道流、山僧が説法は、什麼の法をか説く。心地の法を説く。便ち能く凡に入り聖に入り、淨に入り穢に入り、真に入り俗に入る。要且つ是れ爾が真俗凡聖にあらず。能く一切の真俗凡聖に名字を安著し、真俗凡聖は此の人に名字を安著すること得ず。道流、把得すれば便ち用ゐ、更に名字を著けざる、之を號して玄旨と為す。
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『臨済録』示衆爾一生秖だ這箇の見解を作して、這の一双の眼に辜負す。冷噤噤地にして、凍凌上の驢駒の如くに相似たり。『我れ敢えて善知識を毀らず、口業を生ぜんことを怕る。』道流、夫れ大善知識にして始めて敢えて仏を毀り祖を毀り、天下を是非し、三蔵教を排斥し、諸の小児を罵辱し、逆順の中に向かって人を覓む。所以に我れ十二年中に於いて一箇の業性を求むるに、芥子許りの如きも得べからず。若し新婦子禅師に似たらば、便即ち院を趁い出されて、飯を与えて喫せしめられず、不安不楽ならんことを怕る。古よりの先輩は到る処に人信ぜず、遞出せられて始めて是れ貴きことを知る。若し到る処に人尽く肯わば、什麼をか作すに堪えん。所以に師子一吼すれば野干脳裂す。道流、諸方説く、道の修すべき有り、法の証すべき有りと。爾説け、何の法をか証し、何の道をか修す。爾今の用処、什麼物をか欠少す。何処をか修補せん。後生の小阿師会せず、便即ち這般の野狐精魅を信じ、他の事を説いて人を繋縛するを許す。言う、理行相応し、三業を護惜して始めて成仏することを得と。此の如く説く者は春の細雨の如し。古人云く、『路に達道の人に逢わば、第一に道に向かうこと莫かれ。』所以に言う、若し人道を修すれば道行われず、万般の邪境頭を競うて生ず。智剣出で来たれば一物も無し、明頭未だ顕れざるに暗頭明らかなり。所以に古人云く、『平常心是れ道。』大徳、什麼物をか覓む。現今目前聴法無依の道人、歴歴地に分明にして、未だ曾て欠少せず。爾若し祖仏と別ならざることを得んと欲せば、但だ是の如く見よ。疑誤することを用いず。爾が心心異ならざる、之を活祖と名づく。心若し異なること有らば、則ち性相別なり。心異ならざるが故に、即ち性相別ならず。」問う、「如何なるか是れ心心異ならざる処。」師云く、「爾問わんと擬すれば早く異なり了れり。性相各おの分かる。道流、錯ること莫かれ。世・出世の諸法は、皆な自性無く、亦た生性無し。但だ空名有るのみ、名字も亦た空なり。
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