臨済録 / 示衆
道流!爾欲得如法見解,但莫受人惑,向裏向外逢著便殺——逢佛殺佛、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷——始得解脫。不與物拘,透脫自在,如諸方學道流未有不依物出來底。山僧向此間從頭打、手上出來手上打、口裏出來口裏打、眼裏出來眼裏打,未有一箇獨脫出來底,皆是上他古人閑機境。山僧無一法與人,秖是治病解縛。爾諸方道流試不依物出來,我要共爾商量。十年五歲並無一人,皆是依草、附葉、竹木、精靈、野狐精魅,向一切糞塊上亂咬瞎漢,枉消他十方信施,道我是出家兒,作如是見解,向爾道:『無佛、無法、無修、無證,秖與麼傍家擬求什麼物?』瞎漢頭上安頭,是爾欠少什麼。
新字:道流!爾欲得如法見解,但莫受人惑,向裏向外逢著便殺——逢仏殺仏、逢祖殺祖、逢羅漢殺羅漢、逢父母殺父母、逢親眷殺親眷——始得解脱。不与物拘,透脱自在,如諸方学道流未有不依物出来底。山僧向此間従頭打、手上出来手上打、口裏出来口裏打、眼裏出来眼裏打,未有一箇独脱出来底,皆是上他古人閑機境。山僧無一法与人,秖是治病解縛。爾諸方道流試不依物出来,我要共爾商量。十年五歳並無一人,皆是依草、附葉、竹木、精霊、野狐精魅,向一切糞塊上乱咬瞎漢,枉消他十方信施,道我是出家児,作如是見解,向爾道:『無仏、無法、無修、無証,秖与麼傍家擬求什麼物?』瞎漢頭上安頭,是爾欠少什麼。
書き下し
道流、爾如法の見解を得んと欲せば、但だ人の惑を受くる莫かれ。裏に向かひ外に向かひ、逢著すれば便ち殺せ。佛に逢うては佛を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脫を得ん。物と拘はらず、透脫自在なり。諸方の學道流の如きは、未だ物に依らずして出で來る底有らず。山僧、此の間に向かって頭より打つ。手上より出で來れば手上に打ち、口裏より出で來れば口裏に打ち、眼裏より出で來れば眼裏に打つ。未だ一箇の獨脫して出で來る底有らず。皆な是れ他の古人の閑機境に上る。山僧一法の人に與ふる無し。秖だ是れ病を治し縛を解くのみ。爾諸方の道流、試みに物に依らずして出で來れ。我れ爾と共に商量せんことを要す。十年五歲並びに一人も無し。皆な是れ草に依り葉に附く竹木の精靈、野狐の精魅にして、一切の糞塊の上に向かって亂咬する瞎漢なり。枉げて他の十方の信施を消して、我は是れ出家兒なりと道ふ。是くの如きの見解を作す。爾に向かって道はん、『佛無く、法無く、修無く、證無し。秖だ與麼に傍家に擬して什麼物をか求めん』と。瞎漢、頭上に頭を安く。是れ爾に什麼をか欠少せる。
現代語訳
道流よ、おまえが正しい見解を得たいなら、ただ他人の惑わしを受けるな。内に向かっても外に向かっても、出会えばすぐに殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、父母に逢えば父母を殺し、親族に逢えば親族を殺して、はじめて解脱を得る。物にかかずらわず、突き抜けて自在である。諸方の学人ときたら、何かに依らずに出てくる者がまだいない。わしはここで、頭から打つ。手から出てくれば手を打ち、口から出てくれば口を打ち、目から出てくれば目を打つ。ただ一人として、独り脱して出てくる者がいない。みな古人の使い古した仕掛けに乗っているだけだ。わしには人に与える法など一つもない。ただ病を治し縛を解くだけだ。諸方の道流よ、試しに何にも依らずに出てこい。おまえと語り合いたいのだ。十年五年、ただの一人もいない。みな草に依り葉に付く竹木の精霊、野狐の精であって、あらゆる糞のかたまりに食らいつく盲だ。むだに十方の布施を費やしながら、自分は出家者だと言う。そういう見解をする者に、わしはこう言おう。「仏もなく、法もなく、修もなく、証もない。ただそうやってあちこちに求めて、何を手に入れようというのか」。盲め、頭の上にさらに頭を載せている。おまえに何が足りないというのだ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『臨済録』示衆道流、山僧が説く處を取る莫かれ。何が故ぞ。説は憑據無ければなり。一期の間、虛空に圖畫す。彩畫の像等の喩の如し。道流、佛を將って究竟と為す莫かれ。我が見るには猶ほ廁孔の如し。菩薩・羅漢は盡く是れ枷鎖、人を縛る底の物なり。所以に文殊は劍を仗って瞿曇を殺し、鴦掘は刀を持って釋氏を害す。道流、佛の得べき無し。乃至三乘・五性・圓頓の教迹も皆な是れ一期の藥病相治にして、並びに實法無し。設ひ有るも、皆な是れ相似、表顯、路布、文字の差排にして、且く是くの如く説くのみ。
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『臨済録』示衆是れ爾が目前歴歴底、一箇の形段勿くして孤明なる、是れ這箇、説法聴法を解す。若し是の如く見得せば、便ち祖仏と別ならず。但だ一切時中、更に間断すること莫かれ。触目皆な是なり。秖だ情生ずれば智隔たり、想変ずれば体殊なるが為に、所以に三界に輪回して種種の苦を受く。若し山僧が見処に約せば、甚深ならざる無く、解脱せざる無し。道流、心法は形無くして、十方に通貫す。眼に在っては見と曰い、耳に在っては聞と曰い、鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉し、足に在っては運奔す。本と是れ一精明、分かれて六和合と為る。一心既に無なれば、随処に解脱す。山僧与麼に説く、意、什麼の処にか在る。秖だ道流が一切馳求して、心歇むこと能わず、他の古人の閑機境に上るが為なり。道流、山僧が見処を取らば、報化仏の頭を坐断し、十地満心も猶お客作児の如く、等妙二覚は枷を担い鎖を帯ぶる漢、羅漢辟支は猶お廁穢の如く、菩提涅槃は驢を繋ぐ橛の如し。何を以てか此の如くなる。秖だ道流が三祇劫の空なることに達せざるが為に、所以に此の障礙有り。若し是れ真正の道人ならば、終に是の如くならず。但だ能く縁に随って旧業を消し、任運に衣裳を著け、行かんと要すれば即ち行き、坐せんと要すれば即ち坐し、一念心も仏果を希求すること無し。何に縁ってか此の如くなる。古人云く、『若し業を作して仏を求めんと欲せば、仏は是れ生死の大兆なり。』大徳、時光惜しむべし。秖だ傍家に波波地に禅を学び道を学び、名を認め句を認め、仏を求め祖を求め善知識を求めて意度せんと擬す。錯ること莫かれ。道流、爾秖だ一箇の父母有り、更に何物をか求めん。爾自ら返照し看よ。古人云く、『演若達多、頭を失却す。求心歇む処、即ち無事。』大徳、且く平常なることを要す、模様を作すこと莫かれ。一般の好悪を識らざる禿奴有り、便即ち神を見、鬼を見、東を指し西を劃し、晴を好み雨を好む。是の如きの流は尽く須らく債を抵し、閻老の前に向かって熱鉄丸を呑む日有るべし。好人家の男女、這の一般の野狐精魅に著けられて、便即ち揑怪す。瞎屢生、飯銭を索めらるる日有らん。」師、衆に示して云く、
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『臨済録』示衆爾が一念心の疑ふ處、是れ魔なり。爾若し萬法無生、心は幻化の如く、更に一塵・一法も無しと達得せば、處處清淨、是れ佛なり。然れども佛と魔とは是れ染・淨の二境なり。山僧が見處に約せば、佛無く、眾生無く、古無く、今無し。得る者は便ち得て、時節を歷ず。修無く、證無く、得無く、失無く、一切時中更に別法無し。設ひ一法の此に過ぐる者有らば、我れ説かん、夢の如く化の如しと。山僧が説く所は皆な是れなり。道流、即今目前に孤明歷歷地として聽く者、此の人處處に滯らず、十方に通貫し、三界に自在なり。一切の境差別に入るも回換すること能はず、一剎那の間に法界に透入し、佛に逢うては佛を説き、祖に逢うては祖を説き、羅漢に逢うては羅漢を説き、餓鬼に逢うては餓鬼を説く。一切處に向かって國土に游履し眾生を教化するも、未だ嘗て一念を離れず。隨處に清淨、光は十方に透り、萬法一如なり。道流、大丈夫兒、今日方に本來無事なるを知る。秖だ爾が信ずること及ばず、念念に馳求し、頭を捨てて頭を覓め、自ら歇むこと能はざるが為なり。
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『臨済録』示衆爾秖麼に他の閑名を認めて実と為す、大いに錯り了れり。設い有るも、皆な是れ依変の境なり。箇の菩提依・涅槃依・解脱依・三身依・境智依・菩薩依・仏依有り。爾、依変の国土の中に向かって什麼物をか覓む。乃至三乗十二分教も、皆な是れ不浄を拭う故紙なり。仏は是れ幻化の身、祖は是れ老比丘。爾還って是れ娘生なりや否や。爾若し仏を求むれば、即ち仏魔に摂せられ、爾若し祖を求むれば、即ち祖魔に縛せらる。爾若し求むること有らば皆な苦なり。如かず無事ならんには。一般の禿比丘有り、学人に向かって道う、『仏は是れ究竟なり。三大阿僧祇劫に於いて修行果満して、方に始めて成道す。』道流、爾若し仏は是れ究竟なりと道わば、什麼に縁ってか八十年後、拘尸羅城の双林樹間に向かって側臥して死し去る。仏今何くにか在る。明らかに知んぬ、我が生死と別ならざることを。爾言う、三十二相・八十種好は是れ仏なりと。転輪聖王も応に是れ如来なるべし。明らかに知んぬ、是れ幻化なることを。古人云く、『如来の挙身の相は、世間の情に順ぜんが為なり。人の断見を生ぜんことを恐れて、権に且く虚名を立つ。仮に三十二と言い、八十も也た空声なり。有身は覚体に非ず、無相乃ち真形なり。』
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『臨済録』示衆道流、真佛は形無く、真法は相無し。爾秖麼に幻化の上頭に模を作し樣を作す。設ひ求め得る者も、皆な是れ野狐精魅にして、並びに是れ真佛にあらず、是れ外道の見解なり。夫れ真の學道人の如きは、並びに佛を取らず、菩薩・羅漢を取らず、三界の殊勝を取らず、逈かに獨脫無くして物と拘はらず。乾坤倒覆するも我れ更に疑はず。十方の諸佛現前するも一念の心喜ぶこと無く、三塗地獄頓かに現ずるも一念の心怖るること無し。緣何ぞ此くの如き。我れ諸法の空相を見るに、變ずれば即ち有り、變ぜざれば即ち無し。三界は唯だ心、萬法は唯だ識なり。所以に夢幻空花、何ぞ把捉するを勞せん。唯だ道流の目前現今に法を聽く底の人有るのみ。火に入るも燒けず、水に入るも溺れず、三塗地獄に入るも園觀に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入るも報を受けず。緣何ぞ此くの如き。嫌ふ底の法無ければなり。爾若し聖を愛し凡を憎まば、生死海裏に沈浮せん。煩惱は心に由るが故に有り。無心なれば煩惱何ぞ拘へん。分別して相を取るを勞せずんば、自然に道を得ること須臾ならん。
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『臨済録』示衆唯だ法を聽く無依の道人有るのみ、是れ諸佛の母なり。所以に佛は無依より生ず。若し無依を悟らば、佛も亦た得る無し。若し是くの如く見得する者は、是れ真正の見解なり。學人了せざるは、名句に執するが為に、他の凡聖の名に礙へられ、所以に其の道眼を障へて分明なることを得ず。秖だ十二分教の如きは皆な是れ表顯の説なり。學者會せずして、便ち表顯の名句上に向かって解を生ず。皆な是れ依倚して因果に落在し、未だ三界の生死を免れず。爾若し生死去住脫著自由なるを得んと欲せば、即今聽法底の人を識取せよ。形無く、相無く、根無く、本無く、住處無し。活撥撥地として、應に是れ萬種の施設なるも、用ゐる處は秖だ是れ處無し。所以に覓め著くれば轉た遠く、之を求むれば轉た乖く。之を號して祕密と為す。道流、爾箇の夢幻の伴子を認め著くる莫かれ。遲晚の中間に便ち無常に歸せん。
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